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  あゆ

 透明で冷たい水が足下でさらさらと流れている。わたしの家があるのは、『日本にもまだこんなところが残っているんですよ』とテレビで言われるようなど田舎で、ダム湖の下流に位置するこの川にいると夏でもあまり汗をかかない。
 ついでに言うと、この辺りには学校がないから、わたしはバスで一時間かけて街の中学校に、六つ年の離れた弟の健太は歩いて四十分かけて小学校に行っている。だから、夏休みに入ると、二人とも気軽に友達に会うことが出来なくて退屈だった。
 川遊びも飽きてしまっていたけれど、遊び場が他にないんだからしょうがない。夏休みに入ってからというもの、日課のように川に来ていた。健太は泳ぎがあまり得意ではないので、川に入っても浅いところで浸かっているだけだ。それが、何だかお風呂に入っているみたいでおかしい。
 今日は天気がいい。空は色水のような水色で、綿のような白い雲がすぅっと流れていった。
 ぼんやりと空を見上げていたわたしが川に視線を戻すと、たまに見かける宅配のおじさんが、赤い小さな橋の上から覗き込むように川下を見ながら叫んだ。
「子供が溺れてるぞ!」
 わたしは慌てて立ち上がった。誰か、大人を呼んでこなくっちゃ。健太にそこで待っているように言おうとして、姿が見えないことに気づいた。溺れている子供というのは信じられないことに健太だった!
 さっきまで傍にいたのに、何であんな深いところにいるのかが分からない。流れに足を取られた健太は手を必死で動かしているけど、小さな手は空回りしている。川の流れは思ったより速くて、健太がどんどん遠くなっていく。
「里菜!」
 誰かが知らせたんだろう。母さんがエプロン姿のまま、わたしの名前を呼びながら川に走ってきた。
「健太が、健太が溺れてる!」
 パニックになったわたしが、震える指で何とか健太を指差した時、健太の頭が水にどぷんと沈んだ。
「きゃあああ!」
 母さんが悲鳴をあげた。だけどすぐに、唇をきゅっと噛み締めると真っ直ぐ川に向かって進む。ズボンの裾がびしゃびしゃになっていった。
「芳川さん、駄目だ! 里菜ちゃんも下がって!」
 近所に住んでいる石田のおじさんが母さんを止めた。わたしはおじさんの腕の横から川の流れを見た。だけど、橋と岩が邪魔をして健太の姿は見えない。ここからは足場が悪すぎる。川下から探すことにして、おじさんたちはロープを持ってきた。どうか、神さま。健太を助けてください。もう、わたしは祈ることしか出来なかった。
「大丈夫だ! 岩に引っかかっている!」
 その言葉を聞いて、母さんはへにゃりと座り込んだ。わたしは自分の心臓の音をどこか遠くで聞いているように感じていた。
 夜、仕事から帰ってきた父さんに、母さんは今日のことを話しながら、わたしに再度説教をした。
「里菜はお姉ちゃんなんだから、ちゃんと見ていないと駄目じゃないの」
 母さんは嫌な怒り方をする。だけど、父さんのひと言のほうがわたしを直撃した。
「明日の海水浴は止めだな」
「えー、せっかく楽しみにしてたのに」
「里菜。運が良かっただけで、大変なことになるところだったんだぞ」
 隣の部屋で健太が寝ている。青白い顔を見るとやっぱり悪いことをした気がする。
「……分かった」
 口ではそう言ったけど、やっぱり納得出来ない。人がいっぱいいる楽しそうな海。ハワイアンブルーのカキ氷を食べて、照りつける太陽の下、波に逆らって泳ぎたかった。もう、川なんて、川なんて大っ嫌いだ!
 
◇ ◇ ◇
 
 それから二週間後。畳にごろごろと寝転びながら、わたしはマンガを読んでいた。洗濯物を抱えながら、母さんが話しかけてきたから顔だけ上げる。
「里菜。健太が川に行くって言うからついて行って」
「えー、ヤダ。大体、この前溺れかけたばっかりじゃない」
「しばらく雨が降っていないから大丈夫よ。ずっと、水を怖がるよりは遊べる方がいいし。お母さん忙しいから、ついて行けないのよ。ほら、早く」
 嫌だけどしょうがない。わたしはマンガを閉じて立ち上がった。中学生になったからと説得して、やっと買ってもらえたセパレートの水着が袋に入ったまま部屋の隅で転がっている。せっかくの花柄を近所の川で使う気にはなれない。健太め、あれだけ大変な思いをしたというのに、懲りないのか。
「姉ちゃーん」
 ぶつぶつと文句を言う私に気づきもしないで、さっさと川に入った健太が、嬉しそうに手を振った。まったく、人の気も知らないで。
「あんたねー。調子にのって、また溺れたって知らないよ!」
 楽しそうに水に浮かぶあいつを見ると、まったく、もう、ムカつくったらない。わたしは川に足をつけて冷たい水を思い切り蹴飛ばした。ぱしゃんという音をたてて水滴が飛んでいく。
「姉ちゃん、あゆだ。あゆ!」
「捕まえてきなー」
 興奮している健太に適当に答える。今日の昼ごはんは何かな〜。川で流されかけた健太は『あゆに助けてもらった』と言い張った。魚が助ける筈はないんだから、何か勘違いをしているんだろう。いいから、気がすむまで鮎にお礼を言ってきな。
 投げやりになりつつ、前のこともあるから目を離さずに見ていると、木陰に入り込んでいた健太が連れてきたのは古ぼけたスクール水着を着た女の子だった。あんぐりと口を開けているわたしに女の子はにこやかに挨拶をした。
「こんにちは」
 同い年ぐらいかな? この辺りでは見たことがない顔だけど。
「こ、こんにちは」
 おうむ返しをしながら、目を丸くするわたしに彼女は自己紹介をした。
「わたし、あゆ」
「あ、わたしは里菜」
 反射的に答えながら納得する。なんだ、あゆっていうのは名前か。健太も女の子に助けてもらったって言えばいいのに、名前しか出さないから紛らわしすぎる。
「姉ちゃん。腹減った」
 色々聞きたいことがあったけど、健太がいたら話が出来ない。あゆとは午後にもう一度会う約束をして、昼ごはんを食べに帰る。昼からはわたし一人で行けばいい。
 そうめんをすすりながら、何を喋ろうか考える。川上にはダムしかない。絶対、街から来たんだ。そうだ、街の話を聞こう。
 その思い込みを再会したあゆはあっさりと否定した。
「わたしの家はここよ」
「ここって川ってこと?」
 信じられない言葉に、わたしの好奇心は刺激されまくっていた。
「うん。わたしは生まれ方を間違えたみたいでね。水の外だと息が苦しくなって、一時間ぐらいしか居られないの」
「河童みたいなもの?」
 小さい頃、昔話で聞いた河童は確かに水の綺麗な川にいた。あゆは手を広げると、指の間から空を見ながら答える。
「親や兄弟は普通だったし、わたしにはお皿も水かきもないけど、例えるならそんな感じかな」
「ずっと、川に住んでるの?」
「小さい頃は家の庭に池があって、そこがわたしの部屋だったけど、ダムが出来て家族は引っ越してしまったから」
 あゆの声が寂しそうだったので、わたしは無理やり元気のある声を出す。
「わたしと同じぐらいの年なのに、あゆは一人暮らししてるんだ。凄いね」
「里菜、いくつ?」
「十三」
「計算が間違ってなければ、わたしは十六よ」
 わたしは返事に困った。あゆは小柄で高校生には見えなかったから。手も足もわたしより細くて白い。ちょっと羨ましいな。そんなわたしの視線を、あゆは勘違いしたようで、自分の腕をじっと見た。
「乾いているでしょう。先週から水が少なくなってきて、干上がりそうなの」
「ダムは? 水多いよ」
「広いけど、住むのはちょっと嫌かな。区切られた空間にいると目立つのよね、わたし」
 もちろん、あゆの話を全部信じたわけじゃない。だけど、魚の様に泳ぐ彼女を見ると本当かもしれないと思えた。滑らかな泳ぎは川の流れを傷つけたりしなかったし、人ごみも流行も必要としなかった。
 わたしにとってあゆは、清らかな水に棲むべき生きものだった。
 
 ◇ ◇ ◇
 
 新しい友達が出来て、わたしは浮かれていた。あゆは隠れている魚をすぐに見つけることが出来るし、川沿いにある小さな無花果の木を教えてくれたりもした。二人で見ているから、健太も自由に遊ぶことが出来て楽しそうだ。本当にこんなに楽しい夏休みは初めてだった。
「明日からしばらく川に行ったら駄目だぞ」
 とても暑かった日の夜、ビールの入っていたコップを置いて父さんが言った。
「何で駄目なの?」
「水不足だから、ダムのゲートを一時閉めるらしいんだ」
「じゃあ、川で泳げないの?」
 わたしは食卓に手を置いて、すがるように聞いた。
「水が引いて石がごろごろ出てくると危ないからな。数日間だから我慢できるだろう?」
 血の気が引く音がするとはこういうことなんだろうか。一時間しか陸に上がれないあゆが、水のないところで数日間過ごせるとは思えない。
 事情を知らない母さんはのんきに言う。
「そうよ。宿題でもしていればいいじゃないの」
 父さんを質問攻めにしたところ、水が全部なくなるということはないらしい。川の魚はかろうじて水の残っている岩陰に隠れてしまうだろう。でも、隠れる場所のないあゆはどうすればいい?
 色々考えていて、眠れないまま朝になった。わたしは適当に着替えると、顔も洗わずに川へ向かった。あゆはわたしの話を聞くと、川の流れていく方向を見ながら海に行くと言い出した。
「このまま泳いで行ったら出られるでしょう?」
「そりゃあ、そうだけど……。ねぇ、うちに来ない? 水がいるなら、お風呂にいたらいいじゃない」
「里菜は優しいね。でも屋根があるところに行くと、わたしは自分が人と変わっていることを思い知ってしまう」
 昔の家のことを話したときと同じ、寂しそうなあゆの言葉にわたしは呆然とした。そうだ、家にあゆを連れて帰って、どうやって父さんと母さんを説得するつもりだったんだろう。だけど、このまま何も出来ずに、あゆを見送るだけなんだろうか。何か出来るはずだ、何か。
「ちょっと、待ってて!」
 わたしは慌てて家に引き返した。部屋に入ると畳の上で丸まっている袋を引っつかんで、再び川へ向かった。赤い橋に戻ると、川の水は随分少なくなっていて、あゆの姿も小さくなっていた。
「あゆ! これ、あげる!」
 わたしはあゆがいる方向へ、持ってきた袋を力いっぱい投げた。あとは川の流れが彼女に届けてくれることを願うだけだ。わたしの願いが届いたのか袋は岩に引っかかることなく、あゆの元へ届いた。
「海に行くならお洒落して行った方がいいよ! それ、今年の新作だからバッチリだよー!」
 言葉は届いただろうか。橋から乗り出すようにして川を見ると、あゆが手を上げていた。
「ありがとーう!」
 それを最後にあゆはいなくなった。川へ行くと、あゆを思い出す。健太も同じ気持ちみたいで、川に行きたいとは言わなくなっていた。どっちにしろだんだん水が冷たくなる。川遊びは終わりだ。
 今日も大して興味のない昼のワイドショーを流す。すると、妙なテロップが現れた。
『真夏の海水浴場に人魚姫出現か?』
 くだらない題名だな。わたしでも、もうちょっとましなものを考えるよ。レポーターが無駄に興奮しながら、砂浜を駆け巡っている。
『少女は先日も水難事故にあった五歳の女の子を助けたことで、有名になっています。あ! 居ました居ました! 見えますか?』
 レポーターの指差す先に、追いつこうとするギャラリーには目もくれず、波間を魚のように泳ぐ少女がいた。彼女が着ている花柄の水着に見覚えがある。わたしは目を細めながら、テレビへ四つんばいになって近づいていく。間違いない。あゆだ。あゆが海まで辿り着いたんだ!
『彼女を陸で見かけた人はいません。地元では人魚姫だという噂が流れています』
 スタジオに戻った映像は、夢があるとか、やらせだとか、見間違いだとか勝手にいうコメンテータを映していた。
 目立つのが嫌だとかいいながら、つい、人助けをしてしまうあゆ。川を離れた今も、彼女は何ひとつ変わっていない。
 ねぇ、あゆ。あんたは生まれ方を間違ったと言っていたけど、生き方は間違ってない。わたしはそう思うよ。
 最後にもう一度だけ、海の映像が流れた。清流の河童から、渚の人魚姫になったあゆは、とても嬉しそうに泳いでいた。
 
                                                (了)
 
 
 
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