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  ゴールデンメロディ

 カーテン越しに柔らかな光が入ってくる。どこからか小鳥のさえずりが聞こえて、私は目を覚ました。高い天井と見覚えのないカーテンが見えて一瞬戸惑ったけれど、小さく瞬きをしているうちに、昨晩このお屋敷に到着したことを思い出した。靴を履いて起き上がり、さっきまで自分が寝ていたベッドを見て、私は苦笑いをした。広すぎるベッドの大部分は、シーツが整えられた時と同じ形を保っていた。たとえ寝ていても、身体は自分に必要なテリトリーをわきまえている。朝日はとうに昇っていた。声がかからないということは、自分から食堂に向かったほうがいいのかもしれない。身支度を整えて私はゲストルームを後にした。
 廊下を歩いていれば誰かに会えると思っていたけれど、なかなか出会えない。広大な敷地内では何もかも規模が違う。窓の外に広がる庭では大きな針葉樹が緑色の光を乱反射させている。白い彫刻も何体あるか分からないし、噴水に至っては公園にあるようなサイズ。廊下の向こうから人影が見えなかったら笑っているところだった。
「おはよう、ジェシカ。お部屋にいなかったから、どこに行っているのかと思ったわ」
「おはよう。心配をかけてしまってごめんなさいね、オリヴィア」
 昨夜遅くに到着した私を、ブレイスフォード家の三女、オリヴィアが迎えてくれた。五人兄妹の年の離れた末っ子。英国王立音楽院で毎週土曜日に開催されている、青少年向けの特別教室で何回か会ったことがあるけれど、まさか、お父様の商談相手のお嬢様だとは思わなかった。私は慌てて『お嬢様』と呼び方を変えようとしたけれど、本人の希望で今までどおり、『オリヴィア』と呼ぶことになった。商談はほとんど上手くいって、今回、親睦も兼ねて一週間ほど旅行に行くことになったらしい。そこで問題になったのが、お互いの家にいる末っ子だったという訳。年の離れた兄や姉は同居していないし、一人にしておくと何をしでかすか分からないというのだから、ほんとうに失礼な話。実際、朝から晩までピアノのレッスンが出来ると思っていた私の思惑は見事に外れた。家庭教師やばあやの言うことを聞かないからといって、お互いの娘を監視役につけるというのはどういうことだろうか。
 当の本人はそれを知ってか知らずか、軽やかに微笑む。ピアノ線のような真っ直ぐな髪の毛に朝日が当たってきらきらと輝く。スカートはいつものように長め。陶器のような肌とアーモンド形の瞳。目の前でアンティークドールが動いているような気持ちになる。
「朝食の準備はいつでも出来るけれど、どうかしら?」
「ありがとう」
 本当はピアノの前から離れたくはなかったけれど、オリヴィア自身から私宛に正式な招待状が届いたので断るわけにもいかなくなった。アイボリーのカードには花に包まれた天使と蝶が舞っていて、その上に丁寧な文字が綴られていた。自由奔放なのに奥底から優しい彼女の音と同じ印象に私は招待を受けることを決めた。特別教室で伸びが悪いと言われ続けている私の音と比べ、オリヴィアが奏でる音はどこまでも響き、風のように透き通っていた。あの音の秘密を探ることが出来れば良いのだけれど、一週間では短すぎるだろうか。
「ロンドンに比べるとここは何もない所でしょう。貴女には退屈かもしれないわね」
 どうせ、家にいたところでピアノの前にかじり付いているだけだから、景色は変わらない。オリヴィアの言葉には答えず、私は窓の外を見た。
「昨晩はよく見えなかったのだけど、本当に広いお屋敷ね」
「そうでもないわ。もっと大きいお屋敷に住んでいる人もいるでしょう?」
 それは屋敷ではなくて城でしょう。口に出せない呟きは巧みに微笑みへと変換しておく。
「あのね、ジェシカ。お客さまに、こんな事を言うのはおかしいかもしれないけれど」
 口の前で両手を合わせ、上目遣いで申し訳なさそうにオリヴィアが言った。
「何かしら?」
 気持ちの準備をしながら、私は出来るだけ柔らかな口調でオリヴィアの次の言葉を促がした。
「朝食の後、お願いしたいことがあるの」
「私で出来ることなら」
 末っ子の私にとって、お願いはするものでされるものではなかった。くすぐったいような気分になりながら、私は余裕の笑みで答えた。
 
◇ ◇ ◇
 
 朝食の後、私は白い綿のシャツと滅多に身につけることのないズボンに着替えさせられた。そして、今、白い鉄骨に大きな硝子でラッピングをしたような、八角形の温室の前にいて、沢山のポケットが付いたエプロンをオリヴィアに着させて貰っている。温室の手入れにしては大げさな服装。多分、目の前にある花壇の手入れをするつもりだ。
 誰にも会わないように、こそこそと準備をしているところを見ると、これが例の何をしでかすか分からない、ということか。当然いる筈の庭師に隠れてガーデニングを始めるお嬢様。これは、監視が必要なのも分かる。自分のことは置いておいて。小さな麻の袋をいくつも抱えて、オリヴィアが歩いてくる。中には球根が詰め込んであった。
「一緒にチューリップの植え付けをして欲しいの。昨日、腐葉土を入れたから力はいらないと思うわ」
「素手で?」
 一度手伝うと言ったのだから今さら辞退はしないけれど、もしも指を傷つけたらと思うと心配だ。オリヴィアは気が付かなかったというように両手を顔の前で合わせる。
「まあ! そうだったわね。ガーデングローブがどこかにあったと思うわ。探してくるわ」
 普段はオリヴィアの走る姿なんて見たことがない。初めて行くピクニックのように楽しそうに走りながら彼女は園芸用の手袋を持ってきた。それは買ったときのままらしく、ビニールの袋が圧縮されているかのように潰れていた。鋏で丁寧に袋を開けると、ぺらぺらだった布がもとの形を取り戻していく。オリヴィアが持ってきてくれた物の中には、花柄で指先に滑り止めがついているお洒落なものもあったけれど、私はゴム製で中に綿が入っているものを選んだ。目が覚めるような水色は庭の中で無くしてしまわないためだろうか。ゴムの臭いはついてしまうだろうけど、これなら完璧に指を守ってくれそうだ。
「うん。これなら大丈夫そう」
「良かった」
 指の隙間から見える空を眺める私の前で、オリヴィアはほっとした顔で笑った。彼女に促がされるままに、広大な庭を歩いていくと、そこには花壇というよりは畑といったほうが正しいと思える広大な平地があった。彼女は滑らかな流線型を描く白いテーブルを示しながら、今日のプランを語りだす。
「あのクラシカルなテーブルに合わせて、奥にエステララインベルトを、手前にダブルプライスを植える予定なの。ベルベットのような赤と八重咲きの赤。初めての試みなのだけど」
 名前を並べられても良く分からない。だけど、こういう会話には慣れていた。自分のドレスがどれだけ素晴らしいものか、語り続けるお姉さま達に対する方法と同じでいい。材質や色を、音の重なりに変えて想像してみれば、私にも理解が出来る。
 ベルベットと八重咲き。片方だけでも十分成り立っていけるものを組み合わせる。それは合奏同士を交代させながら演奏するコンチェルト・グロッソに似ているかもしれない。ふと、去年のクリスマスイブに行った演奏会での、コレッリのクリスマス協奏曲を思い出した。確か、コンチェルティーノはヴァイオリンとチェロでリピエーノは弦楽アンサンブル。それは厳粛な中に烈しさを持つ演奏で、いつもは好まないバロックも悪くないなと思ったほどだった。
「そうね。重厚かつ情熱的でいいと思うわ」
「ジェシカが来てくれて本当に良かった。来年は楽しいお庭になりそうよ」
 鼻歌でも歌い出すのではないかと思うほど、うきうきしながら、オリヴィアは土の中に球根を植えていく。かなり密集した植え方をしているから、きっとゴージャスな花畑になるだろう。普通のお嬢様なら、出来上がったものだけを見て、満足するだろうけど、このお嬢様は違うらしい。
「どうして自分でチューリップを植えようと思ったの?」
「球根を植えてしばらくは何も変わらない地面をただ見つめることしか出来ないわ。だけど、一度寒くなった後、だんだん暖かくなると黄緑色の芽が出てくる。葉がだんだん大きくなって緑になり、蕾が膨らんでくる。目まぐるしく変わる過程が面白いの」
 指先を真っ黒な土で染めて、笑うオリヴィアはとても幸せそうに見える。私も手袋越しに伝わる土の柔らかさに、固い鍵盤を叩いてばかりいた自分の指が深呼吸をしているような感覚を覚えた。オリヴィアは腐葉土を混ぜたと簡単に言っていたけれど、その作業は膨大なものだっただろう。
「本当に好きなのね」
「ええ、大好き。自分の手で出来ることって少ないでしょう。だから、大切にしたいの」
 オリヴィアは一瞬、寂しそうに呟いたけれど、同意を求めるつもりはなかったらしい。すぐに、何事もなかったかのように次の袋へ手を伸ばす。
「ここはダグヴァントールホワイトマキシマを一面に敷き詰めるの。背の低い品種で白い花がとても可憐なのよ」
 恐らくそれは遠くからでは見ることの出来ない小さなオアシスだろう。指揮者がこちらに向いてくれるのをずっと待っているオーケストラでのピアノのよう。私は親近感を覚えて、球根の前に座り込んだ。
「だから、球根も小さいのね。このもっと小さいのもチューリップ?」
 ミニチュアのような球根が入ったネットを持ち上げながら、私はオリヴィアに聞いた。
「それはムスカリ。ゴールデンメロディの間に植えるの。紫の海の中に黄色のマストが揺らめいているように見えて、幻想的な風景になるわ」
 まだ見ぬ花の海を想像して、うっとりとする彼女の前で、私はその球根を手に取った。
「一重咲きの黄色のチューリップよ。他の品種は同系色で揃えた方が綺麗だけど、この品種だけは違うの。どんな花とも相性がいいから。弾むように明るくて、お部屋に飾ると雰囲気がとても優しくなるのよ」
 その花はきっと、周りと調和しながらも輝きを保っているのだろう。私は羨望と嫉妬を含んだ感情を抑えることが出来ず、掌の中にある小さな球根を握りしめた。
 
◇ ◇ ◇
 
 ゴールデンメロディを植えていたオリヴィアの手が止まった。彼女は水色の空を見上げる。
「雨が降りそうね。恵みの雨だわ」
 明るい空の下、霧の様な雨が風によってさらさらと運ばれていく。頬に当たって冷たいけれど、濡れるほどでもないので、黙々とゴールデンメロディの植え付けを続ける。
「お嬢様!」
 突然、矢のようにとんで来た声にオリヴィアと私は屋敷の方角を見た。いかにも教育係といった様子の女性が、長いスカートを持ち上げながら走ってくる。オリヴィアは悪戯を見つけられた子供のように、ごまかし笑いをした。怒られ続けるオリヴィアの後ろで、ここまで関わったのなら最後までやり遂げたいと、私が告げると、女性はため息をつきながら屋敷へと戻っていった。それからすぐに屋敷内から次々と使用人が出てきた。庭師も加わり、一番苦労をしていたムスカリの植え付けも、あっという間に終わった。このお屋敷では何度も繰り返されている作業のようで、手際が良すぎる。
 片付けも早々に終わり、私とオリヴィアは屋敷の中へ押し込められた。絶対に風邪をひかせてはいけないという必死さが見えたので、着替えるために大人しくゲストルームへ戻る。白い扉の向こうにあるバスルームには湯気が立ちこめていて、ご丁寧に薔薇の花びらまで浮かべてあった。さっきの温室で育てたものかなと思いながら、ピンクに染まるバスタブに滑り込む。
 私にとっては目の前のピンクの薔薇より、小さな球根の名前のほうが気になる存在だった。ゴールデンメロディ――黄金の旋律。誰かを魅了するようなそんな黄金の輝きを持つ旋律がこの指で奏でることが出来たら、どんなに嬉しいか。けれど、どれだけ思いをめぐらせても黄金の旋律という言葉に相応しい音が思い浮かばない。
 廊下に出ると、空はすっかり暗くなり、雨がしとしとと降り続けていた。遠くから雨音に混じって弾むような音色が聞こえる。音色を辿るようにして歩くと、がらんとしたフロアで、オリヴィアが聞き覚えのある曲を奏でていた。
「春の歌。メンデルスゾーンね」
 私がやってきたことに気づいた彼女は鍵盤から手を下ろした。そして、何度目かのお礼を言った後、さっきまで奏でていた春の歌よりも暖かい微笑みを浮かべる。
「暖かくなったら是非遊びに来てね。ジェシカのお陰でとても素敵なティータイムを過ごすことが出来そうだから」
「ありがとう、オリヴィア。私はゴールデンメロディが見てみたいわ」
「それなら黄色い蕾が膨らんだ頃に、また招待状を書くわね」
 春はまだまだ遠い。私はずっと引っかかっていた問いを口にすることにした。
「オリヴィアは黄金の旋律ってどんなものだと思う?」
 私の突然の質問に、オリヴィアは軽く握った手を唇に当てて少し考えていた。しばらくして、答えが出たのか、視線を上げて私に微笑む。
「そうね、黄金の旋律を完成させて奏でるより、旋律が届いた先で黄金になればいいと思うわ」
「届いた先?」
「沈黙を破って咲き続ける花のように、人波も時も越えて、届くものがあると思うの」
 静かなフロアにオリヴィアの言葉が凛とした響きとして広がった。そして、それは確実に私の中で黄金に変わっていった。どこまでも遠く、そして消えない旋律。時間の経過すら、輝きに変えて届くもの。それこそが黄金の旋律。
「ええ、その通りね」
 心の底から溢れてきた小さな答えがフロアに響く。まるで調律をしているような、確かめるように響く、ポーンという音。いつか、誰かの心の中で黄金に変わる旋律を奏でるために、私は軽く瞳を閉じてその音に寄り添った。
 
                                                (了)
 
 
 
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