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  ヤブロネツ
 
 白い天井を飽きるほど見つめていると、ずっとここにいるような気がしてくる。と言っても入院したのは一昨日のことなんだけど。正月明け早々、サッカー部の練習中にゴールにぶつかって、右腕骨折。ボルトで固定した骨はギシギシときしむような気がするし、とにかく不便で退屈。六人部屋の真ん中の列のベッドという、見るものは何もない状態も重なって、何だか情けない今年の幕開けだ。
 食事を運ぶ音が廊下に響く。ああ、もう昼だ。ちっとも腹はへらないけど取りに行くか。俺はベッドからおりて大部屋を出ると、銀色のワゴンをのぞきこんだ。食事制限がないせいもあって、病院食はわりと豪華。昨日の夜は刺身だったし、今日の昼は煮込みハンバーグ。
 右手は使えないから、左手にトレイを乗せて運ぶ。俺のバランス感覚って、やっぱスゴクない?
 自分で自分を褒めながら、俺はトレイを自分のベッドではなく、真向かいのベッドに座る人へ差し出した。
「はい。ロックの兄チャン」
「中坊、お前までその呼び方はヤメロ」
 俺の真正面のベッドにいる人は、ガリガリの身体と鋭い目つきとヘッドホンから漏れてくる音楽のせいで、周りのおっちゃんたちから『ロックの兄チャン』というあだ名をつけられていた。確かに昔のバンドマンのイメージはこんな感じ。白地に青の細いストライプのパジャマが似合わないったらありゃしない。
 そんな兄チャンの食事を俺が取ってくるのは、脅されたからでもなければ、優しさからでもない。左脚の複雑骨折のせいで松葉杖が手放せない兄チャンがトレイを持ってくるのは難しい。もちろん待ってれば誰かが持ってきてくれるのは分かっているけど、その間、じぃっと食べているのを見られるのが嫌だから。ただ、それだけ。
「いいから早く取ってよ。自分の取りに行けないじゃん」
 怪我人なのはお互い様。伸ばせる腕は伸ばしてもらう。俺はもう一度廊下に出ると、自分の食事を取ってベッドに戻った。左手でスプーンを持って、ハンバーグをもとのひき肉状態に戻していく。思ったように食べられないと、味が半減する。右手で食ったらそれなりに美味いだろうに。この、ノルマのように渡される牛乳も開けにくいんだよな。
 牛乳パックの中央を持たないように気をつけながら、ストロー穴にひっついているシールを歯で引っ張って開けるのは至難の業だ。開いたと思った瞬間、病室に入ってきた人物に驚いて、余計な力が入った。机の上に白い雫がぽたぽたと落ちる。
 その人は全身黒ずくめでぴかぴかしていた。レザーに身を包み、シルバーの鎖をじゃらじゃらとくっつけている。一体、何者なんだ?
 彼は俺の正面のベッドへと向かった。黙々と食事に向き合っていた兄チャンが、人影に気づいて視線を上げる。
「おーっす。うわ、美味そう!」
 そう言って彼は遠慮なく手を伸ばすと、兄チャンのハンバーグを一切れ摘んで口に運ぶ。兄チャンはトレイを両腕でかばって睨みをきかせた。
「病人のメシ取んじゃねーよ。しかも、まだ面会時間じゃねーだろうが」
「一時からスタジオ入りなんだよ。その前に栄養補給させろ」
 無茶苦茶な言い分に口をへの字にした兄チャンだけど、黒ずくめの人の細い腕を見て、ため息をつくと、ハンバーグを乗せたポテトサラダを渡した。彼はパイプ椅子に座ると、無言で食べ始める。本当に腹が減っていたのか、皿はあっという間に空になった。お茶を渡しながら兄チャンが聞く。
「スタジオ入りって、レコーディングか?」
「ああ、出来るとこまでやっとこうかって感じ。お前の分は思いっきり残ってるから安心しろ」
「わりぃ」
 それだけ言うと兄チャンは黙ってしまった。窓際のおっちゃんがみていた賑やかな昼のバラエティ番組が病室らしい控えめな音量で伝わってくる。みんな、兄チャンたちの会話を何となく聞いてしまっていた。冗談じゃなくて、兄チャンは本当にそういう世界の人だったのか。
 沈黙に耐えられなくなったのか、単に時間が来たのか、黒ずくめの人は立ち上がった。パイプ椅子をガタガタと片付けると、軽く片手を挙げて、廊下へ出て行く。
「じゃあ、そーゆーことで」
「ああ。みんなにもよろしく」
 格好と似合わないあいまいな挨拶によそよそしさを感じる。兄チャンは黒ずくめの人を見送ると、雑誌を読むふりをして下を見続けた。そのうち窓際のおっちゃんたちは食後の一服をしに、部屋から出て行った。明るい日差しがカーテン越しに部屋を照らす。ガラス窓の向こうの太陽がいやに遠く感じて、俺は早くもとの場所に帰りたいと思った。
 
◇ ◇ ◇
 
 食器を片付ける音が廊下に響く。ワゴンに置いていかれたら、一番端の配膳室まで行く羽目になる。俺はギブスが机の角に当たらないよう気をつけながら立ち上がった。その時、見覚えのある姿が目の前に現れた。サッカー部の連中だ。同学年の山崎、金子、中島。目を丸くする俺に気づかず、ユニフォーム姿の三人組はネームプレートを確認している。 
「あ、ここだここだ」
「この消毒みたいなの、するわけ?」
「とりあえずしとこうぜ」
 三人は手をひらひらさせて、かけすぎた消毒液を乾かしながら部屋の中に入ってきた。
「小沢ー」
 俺に気づいた中島が大きく手をあげる。これだけ近ければそんなアピールはいらない。でかい声にお見舞いありがとうどころの話ではなくて、周りを気にしながら両手で声を下げるようにジェスチャーする。
「声でかいってば。まだ面会時間じゃないし」
「一時から北中で練習試合なんだよ」
 さっきも聞いたな、こんな会話。途中で呼び止められたりしないところを見ると、基本的に大らかなんだな、この病院。
「いいからいいから。入ってもらいな」
 笑いながら言ってくれた廊下側のおっちゃんにぺこりと頭を下げると、三人は横一列になって、俺の前に立った。俺は必然的にベッドに座ることになる。
「元気そうじゃん」
「まあ、それなりに」
 山崎の言葉に俺はあいまいに答えた。土のニオイが浸み込んだユニフォームがいやに懐かしい。中島は左右に動きながら窓の向こうを見ていたが、目的のものが見つからないらしく、諦めたような笑いを浮かべた。
「グラウンド、近いから見えるかと思ったんだけど、無理だな」
「視力が4.0あっても、ひとりひとりまでは見えねーよ」
 中島を茶化しながら、グラウンドが見えなくて良かったと俺は思った。見なければ、単純に頑張れと思うことが出来る。そもそもこの試合のメンバーを決めるテストで、金子とぶつかった俺が運悪くゴールに吹っ飛ばされて骨折した訳で、正直言って気分は複雑。金子はこっちが気の毒になるほど謝ってたし、わざとじゃないことは分かっているけれど、その格好で目の前に立たれると、笑顔を作るのにちょっとだけ苦労する。相手も同じような気持ちみたいで、金子の表情は中島や山崎に比べて硬い。それでも、何とか話を続けようとする。
「まあ、脚が無事で良かったよ。腕さえ治ればいっくらでも走れるもんな」
 無神経な金子の言葉にかちんときた。夜になったって痛くてぐっすり眠れないし、そもそも寝返りがうてない。ボルトを取るのにもう一度手術しないといけない。長い間動かさないことで落ちる筋肉を鍛えるためのリハビリだってある。出来なくなったことと、やらなきゃいけないことに、押しつぶされそうになる気持ちをおさえるように俺は作り笑いを浮かべた。
「走れるまでは時間かかるだろうな」
 選んだ言葉の意味が伝わっていないのか、奴は俺の左肩に手を置くと励ますように言う。
「三月の試合までには帰ってこいよ」
「俺にはもうそれしか残ってないのかよ。得したな、金子」
 金子の表情がとたんに険しくなる。手を離すと、座っている俺を見下ろした。
「得って何だよ。俺とお前の実力は五分だろ?」
「だから、得だろ? 俺がいなけりゃ、ずっと試合に出られるってことじゃないか」
 いらいらしていると、ふいにパジャマの襟を掴まれた。腕を支えている三角巾が巻き込まれ、引っ張られるのが結構痛い。中途半端に浮いた姿勢はきつかった。だけど、怒りの方が上をいっている。山崎と中島が止めようとしていたけど、俺達はただにらみ合っていた。
「怪我なんてしてなくたって、お前には負けねえよ」
「怪我してなきゃ、お前なんかに負けねえよ」
 売り言葉に買い言葉。そのくらいにしときなよというおっちゃんの言葉も素通りする。そんな言い合いの中、とうとう、山崎が間に入ってきた。
「やめろって」
 金子の手が襟から離れる。俺は右腕を支えながら、深くベッドへ座り込んだ。そのまま山崎は金子を連れて部屋から出て行く。中島も後を追うようにいなくなった。
 俺は追いかけようと重い腰を上げてベッドから離れた。けれど、廊下に出るための一歩が踏み出せない。良く考えろ、俺。一体、何て言うつもりなんだ?
 結局何も思いつかないまま、深いため息をつくと、俺は自分のベッドへ戻ることにした。
 
◇ ◇ ◇
 
 廊下に背を向けた俺の耳に、堅い靴音が聞こえた。まさか、戻ってきた?
 自分の耳を疑いながら、後ろを振り返った俺は、目当てのユニフォームではなく黒ずくめの姿を見て、心底がっかりした。走って戻ってきた黒ずくめの人は俺の脇を通り抜け、ロックの兄チャンの前に立った。兄チャンは一瞬俺を気の毒そうに見たけれど、すぐに何事もなかったように雑誌を閉じて、黒ずくめの人に話しかける。
「帰ったんじゃなかったのか?」
「これ渡すの忘れてた」
 鎖をよけながらポケットから出したのは、最近はあまり見なくなったMD。トレイの横に置かれたそれを、兄チャンは三本の指でつまみ上げる。
「何、これ」
「新曲。最初に入れてるから、歌詞つけといて」
 ラベルを見た兄チャンは首を傾げながら、黒ずくめの人に聞く。
「ジャブロネック? 何語?」
「ヤブロネツ。チェコ語」
「お前、チェコ語なんて出来たっけ?」
 兄チャンの言葉に黒ずくめの人は声を出して笑った。
「俺に出来るわけないだろ。姉ちゃんが去年、チェコ人と結婚したんだよ」
「国際結婚とは聞いてたけど、すげーな。いろんな意味で」
「人の忠告、聞く人じゃないから。それは置いといて、ヤブロネツについて聞きたくない?」
「そりゃ、そういう題名がついてるなら、歌詞を考える上で何なのかは知っておきたいけど」
 ちらりと時計を見ると、兄チャンはいつになく真面目な顔をして、続きの言葉を口にする。
「お前の時間が許す限りで簡潔に頼む」
「おっけー」
 にこりと笑うと彼は立ったまま話し出した。
「ヤブロネツ・ナド・ニソウってのはチェコにある地名なんだけどさ。古い言い伝えによると、通りがかりの旅人がりんごの木を気に入って、そこで休んでいくことにしたんだって。それがきっかけで次々と人が集まるようになって、その村はりんごの木の村と呼ばれるようになったというわけ。今は町になっちまったけど、シンボルマークはりんごの木なんだよ。村ひとつ出来るきっかけが一本の木ってすごくねぇ?」
「あのなー、それをどうやって歌にしろって言うんだよ」
 兄チャンは心底呆れているという顔をしながら、頭をかいた。黒ずくめの人は視線を逸らしながら答える。
「別に。この話が気に入ったから仮題にしただけ。あとはお前に任す」
「嘘つくな。このタイミングで出すからには何か意味あるんだろ?」
 兄チャンに睨まれて黒ずくめの人は額に手をあてると、天井を見上げた。バレたか、という呟きがはっきりと聞こえる。
「お前さ、その怪我のせいでライヴ中止になったの気にしてるだろ」
「そりゃ、それなりに。これからってとこだったのに、いきなりどん詰まりにしてしまった罪悪感っつーか、責任っつーか、そんなのは持ってるよ。人並に」
 頭をかきながら、ぽつりぽつりと話す兄チャンに詰め寄りながら、黒ずくめの人は少々乱暴に言い放つ。
「人なんて関係ねぇよ。こんなの、ちょっと休んだだけだろ? 大体、これで行き止まりなんて思ってねぇし、何がどう好転するかわかんねぇだろ?」
 目を丸くした兄チャンは、沈黙の後、嬉しそうな顔をしながら毒づいた。
「それで、りんごの木の村か。くっせーな」
「そーゆー、くっせーの書くの得意だろ?」
「まあな。呆れるくらいの歌に仕上げてやるから、心して歌えよ」
 その答えに満面の笑みを浮かべると、黒ずくめの人は部屋を出て行った。スキップのようなリズムを刻んでいた足音が次第に小さくなる。静けさを取り戻すと、兄チャンは俺に向かって猫でも追い払うような仕草をした。
「おい。いつまでそこにいるつもりだよ。思いっきり立ち聞きしやがって」
「話、聞かれたくないなら、個室に入ればいいじゃん」
「うるせー。俺は常識的な大人だから、個室は本当に必要な人の為に空けておくんだよ」
 混乱がおきるほどの有名人じゃないから、個室は断られたんだな、きっと。
「それより、お前、追いかけなくていいのか?」
 急に話をふられて俺は俯いた。
「いい。何て言ったらいいのか分かんないし」
「まぁ、応援なんて出来ないか」
「え? あの言い方にはムカついたけど、応援するのは別の話だよ。だって、あいつすっげー練習してるから」
 そこまで言って俺は気がついた。怪我の原因なんて関係ない。ただ、あいつらに置いていかれるような気がして、それが、どうしようもなく嫌だったってことに。
 顔を上げると、兄チャンは俺の顔を見てにやにやと笑っていた。まっすぐ伸びた左手は廊下を指差している。
「どうせまだ、ナースステーションの前にいるだろ。ここのエレベーター旧式で恐ろしく遅いもんな」
 本当にこの人はお節介だ。どうしようもなく正直もので暑苦しい。でも、俺は兄チャンのそういうところが嫌いじゃない。
 何も言わずに俺は廊下へと飛び出した。
「迷惑かからない程度に走れよ!」
 百歩譲っても常識的な大人とは言えない言葉を背中に受けつつ、俺は白い廊下を走る。何ヵ月後にこの人が作ったヤブロネツって歌を探してみてもいいなと思いながら。
 
                                                (了)
 
 
 
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