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  キアロスクロ

 おそらく、外はまっさらのキャンバスのような世界だろう。除雪車すら通らない雪道で四駆が左右に揺れた。気温差でくもったフロントガラスを手で拭うと、外の冷たさが伝わってくる。
 ふと、助手席に座る父が右手を上げた。生暖かい空気が揺らぐ。
「そこを曲がってくれ」
 木々が標識にでも見えるのだろうか。いや、前はほとんど見えないから、感覚で覚えているとしか思えない。この一帯を長年撮影し続けた経験だろう。白い雪原を進んでいるというのに全く迷いはない。
 父の撮影旅行に最後に同行したのは、美大に進むと決めた高校1年の時だった。同じ道を通り、同じ目的地に向かっていた。違っているのは座っている位置。そして、父の脚はまだ動いていた。
 
◇ ◇ ◇
 
 あれは新緑の季節だった。若緑の丘は朝露に濡れ、きらきらと光っていた。山から風が吹き抜けると、木の葉の影が広大な大地に色を落とすように揺れる。
 父は三脚を立て、ファインダーを覗く。こうなると、もう周りのことなど見えていない。ファインダーを覗き、そして離れ、また戻っていく。それを何時間でも繰り返す。
 その様子は風景との対話とも感じる。父の写真は作り上げるというよりは、景色が持つ表情の移り変わりを写し取ったというほうが近いように思う。確かに現像には多大な時間と知識と技術を使っているが、この一瞬を見抜く力は到底真似出来ない。
 私はスケッチを始める。青い空に雲がかかっていた。雲は何度か手の甲に影を作り、また流れていく。
「駄目だな。光が足りない」
 父がぼやくようにそう言った。雲は途切れ途切れでそんなに影響があるとも思えない。
「十分明るいと思うけど」
「向き合うだけの光がない。表情が現れるほどの影が出てこない」
 会話になっているのか、なっていないのか悩むところだ。今日は長くなりそうだ。私は車に戻り、水道水を入れたペットボトルと水彩絵の具を取ってくる。こちらはこちらで思う存分、周囲の色を写していよう。
 昼食のサンドイッチも胃の中で完全に消えた頃、父のシャッターチャンスが訪れた。
 丘の向こうに赤くなりかけた山々が見える。まだ雪を残した峰がピンクに染まる。逆に丘は黒に近い濃い赤に変わった。父はこれを待っていたのだ。
 
◇ ◇ ◇
 
 それなら、今の父が待っているものは何なのだろうか。車椅子に座り、吸うだけで痛くなる外気に身を置く。あっという間に三脚は凍りつく。湖面にはった氷のような空が、ただ透き通るようにそこにある。
 父は、あの頃と同じように景色と対峙するようにファインダーを覗いていた。老いていった父の背中は年々小さくなっていく。丘に行きたいと言ったとき、正直驚いた。あれだけ走り回っていた彼が今、過去を振り返りたがっている。
 雪を巻き込んだ冷たい風が父のひざ掛けを落とした。筋肉が落ち、細く堅くなってしまった脚。その黒ずんだ脚は木枯らしに揺れる樹氷の幹を思わせた。私は黙ってひざ掛けを拾うと、雪を払い元の位置に戻す。
 あの過去が光なら、今が影なのだろうか。父は再び光を待っているのだろか。
 次第に痛くなる鼻をつまみ、少しでも暖めようと試みた。吐く息は生き物のように蠢いたあと、周囲の白に溶けていった。
 求める光はまだ射さない。足元には青い影が貼り付く。
 風も止まってしまった。じっと動かない父の後ろに立つと、目線を同じ位置にもっていく。こんなことで、同じものを見られるとは思っていない。ただ、彼が捕らえようとするものを少しでも感じとれないかと考えただけだった。
 冷たい青が辺りを包む。どこか遠くで鳥の声がしたが、青い影はここに張り付いたように動かない。
 どれくらい時間が経っただろうか。葉の代わりに雪をまとった木から、白い塊がゆっくりと落ちていく音がした。雲の合間から射す光が長い時をかけて、積み重なった雪を溶かしたようだ。
 ふと、父の手が動いた。ファインダーの先にある視線を追いかけると、山側の雲が晴れていくところが見えた。鋭い刃のような光がさし込み、眩しさに目を背けたその時、カシャリと乾いた音が響いた。
 
◇ ◇ ◇
 
 撮影旅行から帰った数日後、父は入院した。
 命に別状はないが、もう撮影には出られないと聞いた。ひょっとすると、あの時すでに父は気づいていたのかもしれない。
 介護用ベッドが届くと言うので、荷物を片付けに父の家に戻った。物置状態になっていた一階の奥の部屋にさらに荷物を入れていると、車のエンジン音がした。隣の家の犬が番犬よろしく吠え続けている。
 玄関から声が聞こえた。チャイムを直さない理由はこれか、と納得しながら、玄関へ向かう。下手なチャイムより、実用的だ。
 伝票にサインをすると、二人がかりで大きなベッドが運ばれる。無機質でデザイン性はないが、ひたすら丈夫そうなベッドだ。
 運び終えた彼らは車に戻った。が、なかなか出発する音が聞こえない。不思議に思い、玄関扉を開けると、一人がすまなそうな顔をしてこちらに来るところだった。
「すみません。もう一つお届けものがありました」
 届け先は確かにここだった。父宛ての荷物のようだ。再度、サインをすると、今度はパネルが運ばれてきた。両手を精一杯広げて持てるくらいの大きさのパネルだ。
 どこに片付けるべきだろうか。考えているうちに手が痺れ、パネルは廊下へ落下する。茶色の包み紙が破れた。
 大した音はしなかったが、破損具合が心配だ。受け取るまでは何もなかったのだから、きちんと確認しておく必要がある。
 本人がいないのに空けるのは悪い気もしたが、このままでは心配で帰れない。ゆっくりと包みを開ける。
 出てきたのは写真だった。白と青の風景。紛れもなく、あの時、父が撮った写真だ。
 静かなグラデーションの世界。完全に近い白と深い青、そしてその間にある白でも青でもない色。どれが欠けてもこの景色にはならない。
 懐かしい言葉が頭をよぎる。消えていかないうちに口に出してみた。
「キアロスクロ」
 ああそうだ。キアロは光、スクロは影。父にとって今がどちらかなんて関係なかった。その全てがなければ、景色として成り立たないのだから。
 光も影も間にあるものも全て愛おしい。今、腕の中にある世界はそう語りかけていた。
 
                                                (了)
 
 
 
 
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