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  タクネの空  ペンギンフェスタ2007参加作品
 
 

 
 
 七月に入ったというのに、天気が悪いせいか肌寒い日が続いていた。灰色の空は夏を忘れてしまっているかのようだ。電車通学の結衣はいつものようにぺたぺたと足音をたてながら、風の止まった無機質な駅の構内を歩いていた。
 ふと、見慣れないポスターに結衣は足を止めた。それは突然、鮮やかな扉のようにそこに現れた。群青の空と一緒にどこまでも続く赤い麦畑、風に揺られて様々な赤が踊っている。彼女はその赤に魅かれるように、人の流れに逆らい、みどりの窓口へ向かった。そこにも同じポスターが貼ってある。これなら話は早いと結衣は窓口へ立った。
「すいませーん。この場所に行くにはどうしたらいいですか?」
「ここからなら特急で三十分、普通に乗り換えて三十分だね。でも学生さん。夏休みはまだじゃないのかい?」
 笑いながらの答えに、今にも行きそうな勢いだった結衣は顔を赤くして俯いた。今日は平日で今は通学中。学校は目の前だというのに、堂々と何処へ行くつもりなのか。自分で自分にツッコミを入れながら、しっかりと同じ写真が載ったパンフレットを貰い、お礼を言って自動ドアから出る。そこにはさっきまで一緒の列車に乗っていた翔太が苦笑いをしながら待っていた。
「結衣。お前相変わらず、訳わかんねぇな。降りるまでは眠そうだったのに、いきなり走り出すから何かと思ったよ」
「だって、翔太。これスゴクない? 青空と夕焼けが一気に見れるようなお得感があるよねぇ」
「その表現はどうかと思うけど、確かにスゴイ」
 結衣と翔太は幼馴染だ。中学生の頃は苗字で呼んでいたけれど、いつの間にか名前で呼ぶようになっていた。別に記念日にする必要もないから、お互い確認もしていない。結衣は自分が貰ったパンフレットを見ながら隣を歩く翔太を見ながら、案外似たもの同士かもしれないと思った。突然降ってわいたような、赤麦探検に二人とも心を躍らせていた。
 
 ◇ ◇ ◇
 
 七月中旬の日曜日。夏休みの課題に使うとハッタリをかまして、誇らしげに結衣は家を出た。空は青く、これから向かう景色を思うだけで心も晴れる。受験生という肩書きは今だけ忘れておこう。家は近いけれど、一緒に出るのは兄弟の手前照れくさいと翔太が言うので二人は最寄の駅で会うことにした。結衣が改札口に着くと、待ち合わせ十分前だというのに翔太は来ていた。
「おはよ」
「おはよう」
 それだけ言うと二人は切符を買い、改札を通ってホームに出た。目的の特急列車は十分もすれば到着すると電光掲示板が教えてくれた。
「全部、鈍行で行くって手もあったんだけど、待ち時間を含めると三時間近くかかりそうなんだよな」
「大丈夫。課題の下調べだって説得したら、電車代貰えた」
 勝利の微笑みを浮かべる結衣に翔太は共犯者の微笑みでかえした。
「俺は受験準備って言ってきた」
 結衣は自分と同じくハッタリだと思ったが、少し違っていた。
「俺、農学部狙ってるからさ。半分観光、半分勉強」
「勉強の方を後に言うところが嘘っぽいね。大体、農学部って初めて聞いたわ」
 同じ大学を目指しているが、不思議とそういう話をした事はなかった。農学部というのもきっと冗談だろうと、結衣は茶化していた。
「農学部農業経済学科。言ってなかったっけか?」
 さらりと言う翔太の正面に立つと結衣は口を頬を膨らます。
「言ってなかった」
「そういえば、俺も結衣の志望学部、知らねぇや」
 翔太の反撃に結衣は全く気づかず、けらけらと笑った。
「そりゃそうだ。まだ、決めてないもん」
「まだって、もうヤバイんじゃないか?」
 こんなことをしていていいのかと聞きそうになるのを翔太は必死で止めた。今さらだ。電車はホームに入り、結衣はさっさと乗り込んでしまった。車内がすいているのを見ると、結衣は座席を四人掛けにして、勢い良く座った。心は麦畑の中なのだろうか、にこにことしている。
「そりゃ、全く考えてない訳じゃないさ。今が理数科だから、理学部か薬学部に行くかなって」
「本当に進みたい奴にとっては嫌味だな」
「何言ってんの。こんなで本気の人に勝てる訳ないべさ」
 複雑な心境の二人を乗せて列車は動き始めた。レールを進むような人生は嫌なくせに、いっそ、こんな風に道を決めて欲しいと思う自分に結衣は苦笑いした。賭けに出るには覚悟が足りない。そもそも情報が多すぎて、これからどこへ向かったらいいのかわからない。翔太みたいに分かっている人はいいなと思うけど、わたしは翔太じゃない。結衣は頭の中で方程式を解くように一気に考えをまとめると、大きく伸びをしながら遥か彼方に流れていくホームを見た。
「とにかく、今日はあの赤麦の空を見に行こう。駅に着いたらすぐ分かるものかなあ?」
「分かるんじゃないか? 結衣が赤麦って言ってるのはタクネって種類の麦なんだけどさ、最近はあまり市場に出回ってなくて、畑は観光用に作ってるらしいよ。地元の人に聞けば、すぐ見つかりそうな気がする」
 タクネ。結衣は頭の中で変換した。赤麦の空ではなくて、タクネの空。うん。その方があの景色に似合ってる。結衣はカバンからパンフレットを取り出すと、うっとりと見直した。十分に堪能した後、パンフレットを納めると、代わりに飴をふたつ取り出して、ひとつを翔太に渡した。
「そういえばさ、何で、作らなくなったわけ?」
「タクネ小麦は一般的な小麦に比べて収穫量が少ないし、風が強いところだと倒れやすいんだってさ。要するに、丘の上には向かないんだよね」
「品種改良とかって難しいの?」
「そこまでしなくても、他の麦があるわけだしさ。中途半端なものを作っても意味ないでしょや」
 確かにそうだと、結衣は深く頷いた。見たいのは、作り物じゃなくて本物のタクネの空だ。
「翔太、なまら詳しくない?」
「じぃちゃん家、農家だからな。結構マニアックなものも作ってるし、昔から興味はあったんだよ。そういう道に進もうと思ったのは最近だけど」
「貴重な人材だねー」
「それをいきなり見に行こうって言う人の方が貴重だと思うけどねー」
 二人は褒めているのか茶化しているのか分からない会話を続けながら、特急列車に揺られる。車窓は慌しく変わっていった。街中を通っていたかと思うと、いきなり田圃だらけになり、また街中に入る。それを何度か繰り返した列車はようやく終点についた。
「乗り継ぎ、五分しかないから」
 慌ててカバンを肩にかける翔太に、首をかしげながら結衣は言う。
「五分あれば余裕っしょ」
「あそこだけど」
 翔太が指差した先を見て、結衣は冗談かと思った。目的のホームは駅の一番端に申し訳なさそうにある。
「いや何あれ。いくら何でも遠すぎるっしょや」
「いいから走れ。このままだとおかれるぞ」
 前を走る翔太の慌て具合からいって、置いていかれるというのは冗談ではなさそうだ。ちらりとホームを見ると、線路は単線で、車両は一両編成。絵に描いたようなローカル線。間違いなく次に来るのは数時間後だ。時刻表を見なくても分かる明快な答えに、結衣は必死で走った。
 ぎりぎりで駆け込むと、ぐるりと見回して空いている座席を探す。日曜日だからか残念ながらどこも空いていなかった。二人はとりあえず、端に移動して壁にもたれかかった。翔太はペットボトルの蓋を開けて、振動のせいで泡が立っているお茶を一気に飲んだ。今日は暑い。お茶はすっかりぬるくなっていたが、喉の渇きはおさまった。
 目的地が近くなると、結衣は水族館の水槽の前の子供のように窓にくっついて、外を見ていた。似たような景色の中に探し物が隠れているかも知れない。そんな必死さを感じて、翔太は一緒に外を眺めた。けれど、探し求めるタクネの空は見つからないまま、電車は目的の駅へ着いた。
 その駅はとても小さく可愛らしかった。ホームには小さなプランターが一列に置いてあり、小さな花と一緒に、小学生らしい一生懸命な字が躍っている。植えた子の名前だろうか。そう思いながら翔太が見ている間に、結衣は改札を出て赤麦の場所を聞いていた。翔太が改札を出ると、赤い丸が付いた地図を旗のように振りながら彼女は言った。
「歩いていくのは無理だってさ。チャリ、借りよう」
 
 ◇ ◇ ◇
 
 駅前のレンタサイクル店で自転車を二台借りると、二人は坂道を登っていった。その横を容赦なく観光バスが通り過ぎていく。ちょっとスリルが多すぎる気がしたが他に道はなかった。登り坂の途中で、二人乗りの自転車を追い越した。必死で漕ぐ男の子と困惑の表情を浮かべる女の子。大丈夫なのだろうか、と思いつつも人ごとだった。
「あれは確実に坂をなめてるね」
「ある意味、挑戦者だわ」
 あまりにも近すぎて来なかった有名観光地は整備されすぎていた。畑が続くかと思えばいきなり駐車場と複数の売店が現れる。名前の付けられた木の前で、沢山の人が記念写真を撮っていた。その隣の畑に立てられた『畑に入らないで下さい』という看板と、柔らかい土に残る無神経な足跡が複雑な観光地の現状を表わしているようで、二人は次第に無口になりながら自転車を漕いだ。
 公道を避けて農道に入ると、車も人も見えなくなった。広がる丘は空に浮かぶ浮島のようで白い雲と一緒に走っていくのは格別だ。風の音しか聞こえない静かな景色は観光地になる前と何も変わってないかのようだった。
 だが、次第に縦横無尽に広がっていく農道を進むうちに、二人は道が分からなくなってしまった。飲み物の自販機どころか、丘の上には日差しを避けるための影も見当たらない。最初は急な坂道にも立ち漕ぎで挑んでいたが、途中から自転車を降りて押して歩くことにした。先が見えないのだから、体力は残しておいたほうが良いと意見も一致した。
「お腹空いたね」
 結衣が時計を見ると一時近かった。ここまで見つからないとは思わなかったから、何も買っていない。それを聞いた翔太は足を止めると、ふと思い出したように言う。
「おにぎりあるけど、いる?」
「いる! ってかさ、いつの間に買ったの?」
「駅で結衣を待ってる時に買った」
 舗装されていない小さな道を見つけて、二人は座り込んだ。準備のいい翔太に感謝しながら、結衣は梅おにぎりを頬張る。持っていたスポーツ飲料はおにぎりとは合わなかったが、喉を潤すには十分だった。
 足を前に投げ出して、ぼんやりと流れる雲を見上げる。遮るもののない空は果てしないと言うに相応しく、このまま寝転んでしまいたいと結衣は思ったが、翔太の言葉がそれを遮った。
「さて、そろそろ行くか」
 迷子の二人を太陽が容赦なく照り付けてくる。方向はあっている筈なのに、いくら進んでも目印らしいものが見つからない。いつまでも続く同じ風景に不安になった頃、ようやく、犬の散歩をしている五十代ぐらいの男性に出会った。二人が挨拶をすると、彼はにこりと笑った。足元には長毛の白い大型犬が二匹。結衣は恐る恐る近寄って聞いてみた。
「この辺でタクネを作っているところってありますか?」
「タクネ? 今、作ってるのかねー?」
「観光用に作っていると聞いたんです。ここらしいんですが」
 翔太は道の隅に自転車を寄せると、地図を広げた。
「ああ、そこ。したらこの道を行くと、右に道が見えてくるからさ。それを真っ直ぐ行くと大きな道に出るからすぐ分かるべさ」
「ありがとうございます」
 二人がぺこりと頭を下げると、彼は笑いながら少し淋しそうに口を開いた。
「知らないうちに色んなものが出来てるんで、他所から来た人の方が詳しいねぇ。ほら、木に名前付けたりしてるけど、あれももともとは農作業の合間に休憩する為に植えたものだから、何の木って言われてもこっちには分からないんだよね」
「そうなんですか」
 結衣の頭に、畑の中にあった足跡が浮かんだ。わざわざ時間をかけてここまで来るのに、踏みにじる。そんな矛盾を抱えた淋しさが込み上げてきた。どうにかそれを振り払って、とにかく前に進むことに集中する。教えてもらった道をひたすら行くとそれらしき分かれ道が見えた。
「えーっと、これだよね」
 結衣が戸惑うのも仕方がない。それは細い砂利道で登り坂の先は下り坂になっている。つまり、先が全く見えなかった。それでも、この道を行くしかないので、翔太は気合いで自転車に乗っていく。坂の途中で結衣との距離が広がったので、翔太はその場で待つことにした。
 結衣は自転車を降り、ゆっくりと坂を上ってくる。顔は下を向いたままだ。
「疲れた?」
「ううん、違う。わたしもさ、赤麦をただ綺麗だと思って、ここに来たんだよね。人の生活を支えてるとかって全く考えてなかった」
「無関心よりはいいんじゃないの。ここに来なければ知らなかったんだから、一歩前進ってことでさ」
「うん。そだね」
 力なく答えながら、結衣は思った。そうか、翔太はこのことを知っていたんだな。
 時計が四時を示した頃、大通りに出た二人を久しぶりに見た車が追い越していく。目的地は近いようだ。丘の向こうに車が何台か停まっているのが、遠くからでもよく見えた。
「あそこだね」
 二人は最後の力を振り絞って、自転車を漕ぐ。車の横に空いたスペースに自転車を置くと、畑の横の道をゆっくりを歩いた。
 それを見た瞬間、結衣は言葉を失った。群青の空と一緒にどこまでも続く赤い空はそこにはなく、区画の中にすっぽりのおさまった小さな麦畑がそこにあった。一番前に並ぶのはカメラの三脚の垣根で、二人は隙間から覗くように畑を見た。
 観光用になってしまった麦畑は、本来の目的とは違う、見るということに重点を置いたものだった。確かに綺麗だけれど、結衣が見たかったタクネの空はそこにはなかった。
「ありがとう、もう、いいや。遅くなったらいけないから帰ろう」
 早口で言うと、結衣はカメラの三脚の垣根をくぐり抜けて、自転車の元へ足早に歩いた。ここまで付き合わせた翔太に悪いと思いながらも、落胆の色は隠せない。
 どうして、タクネの空はなくなってしまったんだろう。もう、写真の中の世界にしかないんだろうか。
 
 ◇ ◇ ◇
 
 沈み始めた太陽が駅のホームをピンク色に染めていた。途中で電車が来る時間が間近に迫っていることに気づいた二人は出来る限り急いだが、少しの差で電車は出て行ってしまった。
「ああ、おかれたか」
 帰り道も思ったより時間がかかったのだから仕方がない。結衣は翔太が気の毒になるくらい、小さくなっていた。責任を感じているのだろうと、翔太はいつもは結衣にまかせっきりにしている情報収集を自分ですることにした。
「バスがあるってさ。特急の時間には間に合いそう」
「ごめんね、疲れたよね」
「なんも。俺は面白かったよ」
 バスは時刻どおりにやってきた。座席は半分しか埋まっていなかったので、ゆっくり座ることが出来た。安心したのか、乗り込んですぐに結衣は眠ってしまった。
「起きろ、結衣」
 ふいに翔太に起こされて、重い瞼を開けた結衣は口をぽかんと開けた。見間違いではないかと、何度も目をこする。そこにあるのは確かにさっき見たタクネの畑なのに、印象は随分違っていた。
 それは陽が沈む前の一瞬の出来事だった。空と大地の境目がなくなり、線だったタクネに夕焼けが重なる。窓の外に広がるのは間違いなく、群青色の空と赤い地上の空だった。結衣が探していたタクネの空は、確かに今、目の前に広がっていた。
「綺麗だね」
「うん」
「ねえ、翔太。いきなりじゃなくてもいいよね」
「ん?」
「少しずつ、本当のタクネの空を取り戻すってのもアリだよね」
 知らない所でどれだけ世の中が変わっていっても、きっとどこかに探しているものはある。久しぶりによく眠ったのと今日の目的を果たしたことで、突然元気になった結衣はどこまでも前向きに話す。
「わたしも農学部行きたいな。学科はこれから考えるとして、何を勉強したらいいんだっけ?」
「理科は必須だな。あとは物理・化学・生物・地学からひとつ選べるけど、どれならいけそう?」
「あー、化学なら何とか」
「その調子じゃあ、明日から徹夜だな」
「うん。だけど、どうしようか考えてて眠れないよりマシ」
 消えていく風景、残っていく想い。もっと知りたいことがあって、手に入れたいものがある。色々な方法があるなら、それを探し求めていこう。
 その時はきっと、目の前に望んだとおりのタクネの空が広がっているだろう。
 
                                                 (了)
 

参考文献

 前田真三.前田真三写真美術館 1 丘の夏,講談社,1999

参考サイト

 CLUB AKAMUGI  赤麦を守る会<http://www.biei.org/akamugi/index.html>
 "赤麦とは",<http://www.biei.org/akamugi/akamugi/akamugi.html>,(参照2007-05-31).

                                                          敬称略
作品についての補足

 この作品は北海道上川郡美瑛町にある赤麦の畑を題材にしたフィクションです。
 赤麦は1999年に「赤麦を復活させる会」の皆様の手で復活されました。
 作中では当時作者が持った印象を使用しています。
 2000年に団体名を「赤麦を守る会」に変更され、現在も活動は続いています。
 活動の輪が広がり、麦畑は広くなっているようです。

 


あとがき

 BUTAPENNさま主催 「ペンギンフェスタ2007」参加作品です。
 2007/06/01から2007/10/31まで開催されていました。跡地はこちら→

 世の中は知らないうちに流れています。
 環境破壊とまではいかないまでも、時代の流れの中で失ったものは数え切れないでしょう。
 失ったものを取り戻そうとする人がいて、それに引き寄せられる人がいます。
 渦が大きくなるに連れて、最初の想いと少しずつずれてしまうのも、避けようのない現実です。
 だけど想いが変わらなければ、今すぐではなくてもきっといつか、風景は戻ってくるのだと思います。
 自然環境をテーマにしたため、最初に考えていたものより、深い話に仕上がりました。
 この機会を与えてくださったBUTAPENNさま、読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。


Copyright(C) 2007. Wakana koumoto All Rights Reserved.

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