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  やまつみ
 
 長い冬が終わり、尾山(おやま)は桜の花で埋め尽くされていた。
 花びらが舞うにはまだ早い。
 人里から近い割には訪れる者がいないため、伸びきった枝から零れ落ちるような桜の花と蕾が道まであふれている。
 そこを紬(つむぎ)は小走りで通りすぎようとしていた。
 年の頃は十五といったところだろうか。
 紬は数年着ている着物すら借り物に見えるような細身の青年だった。
 風呂敷に入れた紙の薬袋がカサカサと音をたてている。
『桜狩? 尾山には行ってはならんぞ』
 婆の言葉が耳に残っている。
「桜狩ではないから、きっと大丈夫だ。通るだけだから」
 紬は自分に言い聞かせるように言った。
 回り道をしていたら、帰るのが翌日になってしまう。
 知らないところに泊まるのは苦手だった。
 最近は村の人手が足りず、身体の弱い彼までが隣の村まで使いに出るようになった。
 普段は村から出たことのない紬にとって、一泊はどうしても避けたかった。
 当然のことながら、夜道を歩くというのも無理だ。
 まだ、空は明るい。
 ここを通るだけでずいぶん時間が節約できるが、この尾山に人が入らないのには理由があった。
 数年に一度、あるいは数十年に一度。
 その間隔は決まってはいないが、村人が山で消える。
 それは数百年前、山神(やまつみ)が居なくなって、鬼が住みつくようになったからだと言い伝えられている。
 それは天をも操る恐ろしい鬼だそうだ。
 紬は恐ろしい目にあったことがない。
 だから話を聞いても、平気で山に足を踏み入れた。
 突然、長く伸びた桜の枝がしなって紬に襲い掛かってきた。
 とっさに紬は身体を低くする。
 ぎりぎりで避けることはできたが、胸の辺りが苦しくなり、そのまま座りこんでしまった。
「そこにいるのは誰だ」
 木の上から十にもならない女の子の声がする。
「雑鬼か? 桜の神か?」
 声の持ち主が音もたてずにふわりと降りてきた。
「ほう。人間なんぞ何年ぶりかの」
 その姿に紬は小さく息を飲んだ。
 彼女は稲穂色の髪と、土色の瞳と、二本の角を持っていた。


◇ ◇ ◇


 鬼の姿に紬は全身を強張らせた。
 胸はまだ苦しい。けれど、早く逃げなくては。
 退路を探してはみるが立つことすらままならないので、気は焦るばかりだ。
 その時、穏やかな女性の声がした。
「どうかしましたか? 夕日見(ゆうひみ)」
 紬はまるで言葉を忘れたように、口を開け閉めした。
 声の主が鬼のすぐ後ろの桜の木の中から出てきたからだ。
「ああ、桜の神。ほら、人間だ」
 鬼は振り返ると、春に山菜の芽を見つけたような口調で答えた。
 女性も冬眠から覚めた栗鼠(りす)に出会ったかのような反応をする。
「まぁ、本当」
 紬は目の前の光景と会話の雰囲気の差に混乱していた。
 この会話を信じるなら、鬼の次に出てきたのは神ということになる。
 鬼は紬を見下ろすと、手を差し伸べた。
「私は夕日見。こっちは桜の神の」
 夕日見が桜の神を見ると、彼女は少し寂しそうな顔をした。
 それもひと時で、すぐに微笑んで口を開く。
「桜花(おうか)です」
「俺は紬、です」
 紬は名乗ると、夕日見の手を借りて立ち上がった。
「紬はなぜ此処を通った?」
 本当に珍しいのだろう。
 夕日見のくるくると変わる表情に好奇心が見てとれた。
 紬の緊張も少し和らいできた。
「帰りが遅くなりそうだから、近いほうを通ったんだ」
「賢明だな。お前の足では夜道は歩けまいよ」
 白くて細い脚。
 健脚とはお世辞にも言えないのは紬も承知している。
 しかし、はっきりと言われるとそれはそれで認めたくはない。
「今日の桜は綺麗ですから、見て損はないですよ」
 桜花が今の会話が聞こえなかったように、話を変えた。
「この辺の桜を管理している桜の神が言うのだから間違いないぞ」
 夕日見に悪気はなかったらしく、桜花の言葉に誇らしげに続く。
 紬も先ほどの会話はなかったことにした。
「うん、凄く綺麗だ。普段はもっと遠くから見ているけれど、尾山の桜は真っ白だなと思っていたんだ」
「桜は白いに決まっているだろう?」
 夕日見は納得がいかないようだ。
 桜花は二人のやり取りを微笑みながら見ていたが、しばらくすると紬に帰り道を示した。
「その小さな木の下を行けば、細いですが道が見えますよ」
「ありがとう。桜花、夕日見」
 紬の姿が見えなくなった後、再び確認出来るようになると、夕日見が大声を上げた。
「また、来い! 桜はまだ見頃だからな!」
 その言葉に、坂の下にいた紬は天高く手を挙げた。
 紬の姿が見えなくなっても、夕日見と桜花は少しの間その場にいた。
「いい奴だな。しかしあの様子では、先はあまり長くない」
「夕日見!」
 夕日見が話しているのが、紬の寿命のことだと分かって、桜花は声を荒げた。
「分かっているよ、桜の神。紬には言わない。心配はいらない」
 目の前に広がるのはただただ、白い世界。
 一緒にいるのに独りのようだと夕日見は思った。


◇ ◇ ◇


 次の日、紬は熱を出した。
 慣れない遠出と、思いもよらない出来事に身体が悲鳴を上げたようだ。
 村の用事も重なり、紬が尾山に来ることが出来たのは三日後のことだった。
 雨が降らなかったのが幸いして、桜はまだ散っていない。
 昼間なので山道も明るく、紬は次第に山の奥へと入っていった。

 夕日見と桜の神に会った周辺をしばらく歩いた。
 だが、名前を呼んでも二人の姿は見えなかった。
 自分が見たのが幻だったのかもしれない。
 その時、生暖かい風が通り抜けたかと思うと、急に身体が重くなった。
 何かが後ろから追いかぶさるような感覚がする。
 肩越しに後ろを見ても、桜があるだけだ。
 でも、見えない何かの気配がする。
 鳥肌がたつ。冷や汗もかいてきた。
 地面を見下ろすと、声が響いてきた。
『どうせ何も出来ないのに下手に手を出すんだからな』
 ゴウゴウと風の音がする。
『紬はつまらないよ。何も知らないから』
 耳をふさいでも声が聞こえる。
『婆様は甘すぎる。親を亡くしたって、自分で働いている子供はたくさんいるじゃないか』
 カタカタと震えが止まらない。
『いてもいなくても同じなら、いないほうがいい』
 世界の色が変わってしまった。
 目を閉じても、うごめく闇がまとわりついてくる。
 自分はいつも独りだ。
 紬は膝を地面について、小さく小さく丸まった。
 だれか、だれか助けて。
 ここから救い出して。
 腕に爪を立てた。
 痛みすら紬を正気に戻してはくれず、爪はどんどん食い込む。
 このまま意識を失えたらどんなに楽か。
 だが、風の音はおさまりそうになかった。


◇ ◇ ◇


 しばらくそのままでいただろうか。
「しっかりしろ、紬」
 ああ、夕日見の声がする。
 紬はすがるように目を開けると夕日見を見た。
「心だけの問題ならば、自分で立て」
 言葉はきついが、紬がふらつきながら立ち上がるのを夕日見はそのまま待っていてくれた。
 やっと立ち上がった紬が、青い顔のままでとりあえず笑顔を作ると、夕日見は頷いて紬の肩に手を伸ばした。
 それから埃でも掃うように手を動かす。
 途端、身体が軽くなった。
 声も風の音も聞こえなくなった。
「雑鬼だ。ほら」
 夕日見が掌を広げるとそこには赤い瞳の小動物がいた。
 紬は恐る恐る手を伸ばす。
「鬼ってこの鼠みたいなのが?」
 想像と違う。
 すると雑鬼は思い切り、紬の指を噛んだ。
「痛い!」
「見た目は人型でなくても言葉はわかるぞ。人間が多いところによくいるのだ。雑鬼は瞳が赤く、他者の心を惑わす」
 確かに鬼だ。丸くて小さな角が一本ある。
 夕日見の瞳は土色だ。
 角は二本、しかも長くてとがっていて、この鬼とは違うように思える。
 紬はとても気になっていたので、この機会に聞くことにした。
「夕日見は鬼ではないのか?」
 そうでなければいいと思った。
 だが、夕日見は首を横に振った。
「鬼だ。生まれ方がちょっと違うが。雑鬼は雑念から生まれる。私は罪を犯したから変化(へんげ)した。呼び名は、神鬼(しんき)だ」
「神鬼?」
「だが、その名は好かん」
 夕日見は怒ったような泣きそうな不思議な表情をした。
 紬は何とか元気づけようと思った。
「じゃあ、俺と同じ山童(やまわらし)だ。婆が山で育ったものはみんな山童だと言っていたよ」
「ああ、それはいい。夕日見は山童。紬と同じだ」
 夕日見はよほど山童という言葉が気に入ったようだ。
「礼代わりにひとつ教えておくよ、紬。今みたいに雑鬼に魅入られたら、自分の事は考えるな」
「自分の事は考えない」
 もう、あんな恐ろしい思いはしたくないので紬は復唱した。
「自分を振り返るな。誰かにしてあげられることだけ考えるといい」
「何でもいいのか?」
「どんな小さなことでも。雑鬼は繋がりに弱い」
 あ、と紬は声をあげた。何やら思い出したようだ。
「昨日まで屋根の葺き替えがあって、村のみんなが集まったんだ。俺は炊き出ししか手伝えなかったけど。それで」
 紬はごそごそと包みを取り出した。
「最後に団子を配ったんだ。珍しいから一緒に食べようと思って持ってきた」
「そういうのも大歓迎だ」
 夕日見は声をあげて笑った。
 大人数で作ったのが手に取るようにわかる不ぞろいの団子。
 その一人でも空腹を満たすのが難しい数を一緒に食べようと持ってきてくれた。
 紬は小さなことだと言うが、夕日見はどんなことよりも嬉しかった。


◇ ◇ ◇


 さらに数日が経ち、桜はようやく満開になった。
 夕日見は桜の木の上に、紬はその根元に腰をかけて、春の空を見ていた。
「桜花、今日は見かけないな」
「よそに行っているのではないか? 今度はいつ来ることが出来るか分からないからな」
 紬は不思議そうな顔をした。
「夕日見たちはこの山に住んでいるんだろう?」
「この姿では山全体なぞ見回れん。神は[場]と呼ばれる所で、光となって守っていくのだ」
 夕日見の心を表すように枝が風に揺れる。
「まれに[場]から、今いる[地]へと繋がる。それは何年に一度か何百年に一度かわからない。直にそこへ戻らなくてはな。どうして皆といるときは時間が過ぎるのが早いのだろう」
 今度は夕日見が地面に降りるのに合わせて枝が大きく揺れた。
「一緒に来てくれないか、紬。お前の身体もそのほうが楽になる」
 紬はその切羽つまった様子に言葉を失った。
 その時、夕日見の瞳が赤さを増したのを、紬は確かに見た。
「なんだこれは。目の奥が熱い」
 身体に変化がおきている。
 夕日見は瞳を押さえて、そのまま気を失った。
 紬は夕日見の身体を精一杯支えながら、ありったけの声で桜花を呼んだ。

 本当に飛ぶようにやって来た桜花は、夕日見の口に水を含ませると、身体に負担がかからないよう木陰で休ませた。
「もう大丈夫ですよ」
 夕日見はぼんやりしている。
 瞳の色もまだ少し赤い。
 桜花と紬は夕日見の姿が見える程度に離れて、話をした。
「夕日見は雑鬼ではないのに、どうしてこんなことに?」
「彼女は山神でありながら、孤独に耐え切れず人を巻き込んでしまいました。そして鬼に変化しましたが、神としての仕事はそのまま残ったのです。それから何度も彼女は罪を重ねてしまいました」
 桜花の話は難しかったが、紬は夕日見を理解しようと必死で聞いた。
 桜花も紬に理解できるように出来るだけ簡単な言葉で話し始めた。
 夕日見には夕日見の桜花には桜花の[場]があり、それらは決して交わらない。
 だが、人の魂(たま)なら数年は留まることが出来る。
 だから、夕日見は人の魂を[場]へ連れてゆき、自分はどんどん鬼へと変化していった。
 止めることが出来なかった、と桜花はまるで自分も共犯者のように言った。
「でも、不思議なのです。そんな大きな力を使わなければ、急激な変化などありえないのに」
「大きな力って?」
「そうですね。私だったら、今の時期にしだれ桜を咲かせたり、局地的に天気を変えたりすることでしょうか」
 桜花はおかしな事に気がついた。
 この天候の変わりやすい季節に、何日、雨が降っていない?
「夕日見、貴女まさか!」
 桜花が夕日見を見ると、彼女はいつの間にか二人の傍にきていた。
 瞳は濃い赤になっている。
 紬は雑鬼に出会ったときの、風の音を聞いた。
『雨が降っては[地]が動く。[場]が開きやすくなる』
 いつもの声と違う、轟くような声が響く。
 桜花は紬をかばうように立った。
『邪魔をするな、桜の神』
「まだ、名前を呼んでくれないのですね」
『当たり前だ。鬼が神の名など呼べるか。破滅してしまうぞ』
 風が桜花と紬を遠ざけようと吹き荒れる。
「やめてください! これ以上力を使うと本当に雑鬼になってしまいます」
 夕日見は何を言っても無駄だと首を横に振った。
『私はもう独りは嫌だ。毎日が同じなんて嫌だ』
 寂しく哀しい声だ。
『行こう、紬。お前を苦しめる者などいない所に』
夕日見は紬の手を引いた。


◇ ◇ ◇


 夕日見の赤い瞳が紬だけを見ていた。
「俺は、行かないよ」
 紬は怖かったが静かに言った。
『ならば、力ずくで連れてゆく』
 夕日見はどこからそんな力が出てくるのか、すごい力で紬の片腕をつかんだ。
 桜花が二人の間に入ろうと動く。
 しかし、紬は止まるように手で示すと、夕日見に向き合ったまま言う。
「桜花は見ていてほしい。これ以上夕日見が力を使って変化しないように」
 自分の腕をつかんでいるのはまぎれもなく鬼だ。
 鬱血しそうなほど締め付けられている。
 紬はその痛みや恐怖と戦っていた。
 軽く息を吸い込む。
 雑鬼に魅入られたら自分の事は考えない。
 かつての夕日見の言葉を、頭の中で何度も何度も繰り返す。
「俺は婆も村の皆も桜花も、そして夕日見も大切だから出来るだけ笑っていてほしい。俺の時間があと少しでも、その笑顔のために俺は生きていく。そう決めたんだ」
『それでは私は笑えない』
 夕日見は冷たく言い放った。
「確かに今、独りでなくなったら、夕日見は喜ぶだろう。だけど、魂が消えたら夕日見はまた悲しむことになる」
 紬は開いているほうの腕を夕日見に回し強く抱きしめた。
 夕日見の周りの空気が刺すように痛い。
 苦しければ苦しい顔をすればいいのに、紬はいつも心配をかけまいとひときわ大きな笑顔を見せる。
 今だってそうだ。
「山で育ったものの命は山に戻る。いつか自分の形がなくなったら、山に来るよ。そして、夕日見がまたここに来るのを待っている」
 夕日見はいつの間にか涙を流していた。
 ゆっくりと紬の背中に両腕を伸ばす。
 もう、無理やり連れて行こうとは思えなくなっていた。
『紬、私の償いはとても長くなりそうだ。それだけの報いを受けるべき罪を重ねてきたんだ。それでも私を待っていてくれるのか?』
「待つよ。ずっと一緒にいるために」
 紬は夕日見の赤い瞳をまっすぐ見てそう言った。
 夕日見はゆっくりと紬から離れる。
『約束する。次に逢うとき私は山神だ。桜の神、それまで紬を頼む』
「はい、夕日見」
 桜花の返事を聞くと、夕日見は静かに消えた。


◇ ◇ ◇


 それからどれだけ永い時が過ぎただろうか。
 尾山は初夏を迎え、木々の緑は色を濃くしている。
 夕日見が山神に戻ってから、はじめての[地]はとても優しい色をしていた。
 もうじき日の出だ。
 まだ暗い山の中で稲穂色の髪が風に揺れていた。
 桜花はその姿を確認すると声をかける。
「夕日見」
「久しぶりだな、桜花」
 夕日見は照れくさそうに笑った。
 出来るだけさりげなく名前を呼ぶが、まだぎこちない。
 数百年ぶりの再会に言葉がうまく出てこない。
「何日も現れないから、今回は会えないかと思ったぞ」
 そして夕日見は少し諦めた様子でつぶやく様に言う。
「桜花。これだけ時が経ってしまっては紬の魂は空気へ溶けてしまっただろうな。それでも、いつかこの山の何処かで会えるだろうか」
 哀しそうな夕日見に対して、いたずらを思いついた子供のように桜花は笑った。
「紬なら今、来ますよ」

 桜花が視線を向けた方角の木々の合間から柔らかな光が見えた。
 最初は木の葉に反射する朝日かと思えた。
 しかし、動きが違う。
 よく見るとそれはいくつかの小さな木霊だった。
 そのひとつがまっすぐ夕日見へと飛んできた。
「まさか、紬?」
 夕日見は半信半疑で呼びかけた。
 木霊はくるくると楽しそうに夕日見の周りを回った。
「最初に山に来たときは霊魂でした。それから夕日見が罪を償うのと同じだけの永い時をかけて、紬は木霊になりました」
 それは一滴ずつの水が時間をかけて岩を削るより大変な作業だった。
 夕日見は手を伸ばすと紬を胸に抱いた。
 紬はとても温かかった。
 夕日見の目に涙が浮かぶ。
「待っていてくれて、ありがとう。紬」
 木霊はひときわ強い光を放った。
「紬は夕日見に沢山話がしたいそうですよ」
「そうだな。木霊の言葉を覚えなくては」
 焦る夕日見に桜花は微笑んだ。
「ゆっくり話していけばいいですよ。時間は沢山ありますから」
 朝日が山々の間から顔を出した。
 光の中、長い夜の終わりを告げる鳥の声が響いた。
 
                                               (了)
 
(2007.01.17 改稿) 
 
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