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異界の境界の緑 第二十話 木日光 (クルミ) |
白い砂塵が浜辺を包み込んでいた。辺りには規則的で乾いた足音だけが響く。 どこから来たのだろう。何の目的で? 問いかけは自らの中で反響しているようだ。ソドウは無言で走り続けた。後ろに続くカイやハクシャ、村人たちもきっと同じ気持ちなのだろう。誰ひとり声を発することなく、ひたすら足を進めている。 長く思えた時間が過ぎ、浜辺に人影が見えた。ふと立ち止まり、人だかりの中心にいる人物を見てソドウは呆然とした。 「どうしたの? ソドウ」 ハクシャの声がどこか遠くから聞こえる。真っ黒に日焼けした海の男。ここにいるはずのない人が当たり前のように荷を運んでいた。 「本当にいたんだな。ソドウ」 驚きのあまり、乱れた息すら止まってしまった。ぽかんと開いていた口がしばらくしてようやく動き出す。 「兄さん」 皆が向き合った二人を交互に見ていた。その視線に気づいた男性は軽く頭を下げた。 「ソドウの兄、クトウです。この度は弟が大変お世話になりました」 挨拶を受けて村人たちもばらばらと頭を下げる。群集の中、ハクシャとカイも同じ動作をした。一方、ソドウは混乱を隠すことなくクトウの腕を掴んだ。 「どうして兄さんがここへ?」 「前にひどい嵐が来ただろう。嵐が過ぎた後、柱が浜にあがったんだよ」 「柱ってまさか」 あの日、自分たちと一緒に流された柱。ハクシャが見送った柱は青い光にひかれるように消えていった。 「あれを見て、どうしてもセイトーロに行きたいと言う人がいてな。そりゃもう、誰の言うことも聞きやしない。一人で行くと言い張るものだから連れてきたんだ。あの柱はソドウが作ったもので、しかも、橋の材料だという話は半信半疑だったけどな。お前が今ここにいるってことは、あの人の言うことは本当だったって訳だ」 「その人ってまさか」 思いもよらないことばかりおきて、ソドウの言葉は半分以上が空気になってこぼれていった。ぱくぱくと口を開けるだけのソドウにクトウは子供のように楽しそうに笑う。 「そろそろ戻ってくるだろうな。今、村長のところに挨拶に行っているんだ」 クトウが言うとおり、村の方角からがっしりとした体格の初老の男性が歩いてくる。彼はソドウに向けて、軽く手をあげた。 「よう。ソドウ」 「師匠!」 目を白黒させている弟子を置いて、師匠は村人たちへ会釈をした。名前はヤグラ。ラーフジクの大工。そんな簡単な挨拶の間もソドウは見つからない言葉を必死に探していた。いるはずのない人が目の前にいる。ラーフジクではないのに、当たり前のようにここにいる。あまりの出来事に思考が定まらない。 「柱が届いたって」 ようやく口に出来た言葉は曖昧なものだった。だが、ヤグラはソドウに向き直るとにやりと笑う。 「ああ、もうとっくに生きていないだろうと思っていたやつの癖がありありと分かる細工がしてある柱だ。あんなもん見せられたら来るしかないだろうが」 「俺を心配して、こんな危険な航路を?」 今の時期、波は比較的安定してはいるが、誘導のない航海が危険なことに変わりはない。 「馬鹿もん。あれほど言ったのに全然直っていない。場所場所で仕事をするな。芯で仕事をしろ」 海を越えてわざわざ叱りとばしに来た師匠に、弟子は小さくなる。 「今頃、お前の後輩達が、ラーフジク側からの支柱を立てている。あの柱は大きなきっかけになったよ。橋のことはもう皆諦めてしまっていたからな」 ヤグラの言葉にソドウはぱっと頭を上げた。 「そうだ、師匠なら知っているだろう。どうして橋の工事は中止になったんだ? あの時、ラーフジクで何があったんだ?」 辺りの空気が変わった。ざわめきが一瞬にして凍りつく。ヤグラはこの場で話せば混乱すると察し、静かに答えた。 「荷をおろす許可はもらった。あとで村長の家に行くことになっている。そこで、あの時何が起こったのか話そう」 全ての荷をおろしたころ、既に辺りは薄暗くなっていた。村長の家の前には数人が集まっていた。代表が話を聞き、他の村人に伝えるようだ。入り口で進むよう促がされたソドウはヤグラとクトウの後について村長の家へ入っていく。 中央に置かれた灯りは人が集まる度に小刻みに揺れた。最後にハクシャが翁の手を取り現れ、開いた場所に座る。 揺らめいていたいくつもの影が床に小さく収まった。だが、一つだけ長細い影が部屋の片隅に張り付いていた。クトウはそれに気づき、ソドウへ問いかける。 「彼は? 浜にも居たようだが」 「俺が乗った船に彼も乗っていたんだ。今は橋を架けるのに欠かせない人になっている。カイ、こっちに座らないか?」 ソドウの誘いをカイは短く首を横に振ることで断った。 「いや、俺はここでいい」 「そうか」 ソドウはそれ以上声をかけず、ヤグラへ視線を戻した。 「では話してくれ」 村長に促がされ、炎が揺らめく中、ヤグラの言葉が形をなすように紡がれていく。 「ソドウたちがラーフジクから出航して、しばらく経ったころだ。足場も完成して、ようやく本体に取りかかろうとした時、大陸の人間が海底にある岩を火薬で吹き飛ばした」 「岩?」 村長が不思議そうな表情を浮かべる。 「ただの岩じゃない。青の聖地と呼ばれる岩だ」 「祖堂にある神木に近そうじゃな」 翁の言葉にソドウが頷いた。 「入口も出口もないけれど、雰囲気は近いかもしれない。青のお陰で安定した足場が組めたから」 「だが、その足場は橋のためではなかった。聖地を破壊するために様々な細工が必要で、足場はそのひとつだった」 ヤグラは苦々しく言った。足場ひとつ作るにしても苦労の連続だった。それが、火薬を設置するためのものとは考えられなかった。 ソドウは不快感を表わしながら、ヤグラへ問いかける。 「何のために聖地を破壊するんだ? そんなことをして何の利益があるんだ?」 「それは分からない」 沈黙が辺りを包む。低い声で話し始めたのはカイだった。 「他の大陸を攻めるには、この島々が必要だ。けれど、聖地と呼ばれる場所には立ち入ることができない。使えない場所を使えるようにするために聖地を破壊する。大陸の人間の考えそうなことだ」 「それだけか?」 ソドウには理解が出来ない。 「勿論、それだけではないだろう。不可解は時にして真実を写し出す。大陸の人間にとってはその聖地が不可解であるからこそ、恐怖だったんだろう。その恐怖が破壊に結びついてもおかしくはない」 「でも、俺たちは青い光を見たぞ。あれは聖地の光じゃないのか?」 大きな岩がいとも簡単に破壊されたという話はにわかに信じがたい。 「あれを見たなら話は早い。今まであんな光は見たことがあったか?」 ソドウは首を横に振る。柱のせいかとも思っていたがどうやら違うようだ。 「広がっていく青い光。あれは砕け散った海底の青が作り出した光景だ」 「どうしてそんなに簡単に聖地へ近づけたんだ?」 ソドウの問いかけにヤグラはクトウへと視線を移した。この話はクトウの方が詳しいようだ。一同も彼の言葉を待つ。 「ラーフジクに大陸の人間を手引きした者がいたそうだ。今、考えると納得がいくんだ。あいつら、島の事情を知りすぎていた」 辺りはざわめきに包まれた。クトウとヤグラは苦虫を潰したような表情を浮かべている。黙っておけばなかったことに出来たかもしれない。だが、彼らはあえてそれを告げるためにこの場を設けた。村長はクトウを気遣いながら問いかける。 「それは本当なのか?」 「俺の幼なじみが実際に見てきて話してくれたことだからな。手引きしたのは地底の聖地を守っていた者だったと彼は言っていた」 クトウの言葉に意外な人物が反応した。 「地底の聖地。それは、洞窟の下にある湖のことですか?」 「ハクシャ?」 彼女の震える声は擦れていた。クトウは真っ直ぐ彼女に向かい、慎重に答える。 「そう聞いているよ」 ハクシャの震えは声だけでなく、全身へ広がった。生気のない表情で彼女は事実を告げる。 「私はその村にいました。黒く澱んだ湖を捨て、村人は全て去りました。残されたのは青の守人と身よりのない子供たちだけ」 そこにいる者たち全てがハクシャに注目する。誰も何も言わなかったが、沈黙はざわめきよりも激しくハクシャに突き刺さった。カタカタと震えながら、ハクシャは必死でこの場に居ようとする。 「でも、まさか、そんなことが」 有り得ないとは言い切れなかった。あの時、村を去っていった自分たちに残された人間のことなど考える余裕はなかったのだから。 被害者だと思っていた自分が、実は最初の加害者だった。ハクシャの顔は灯りにあったってもなお青白く、言葉にならない言葉が紫の唇から震えとして零れ出た。 「少し、離れて休んだほうがいい」 「いいえ。最後まで話を聞くわ。そうしないといけないの」 ソドウの言葉にハクシャは腕を交差させ、自分で自分を抱えた。祖堂の中で何度か見たことのある仕草に、ソドウは首を横に振る。 「今、何を聞いても君には正確な判断はできないだろう。逃げずに立ち向かうのと、自ら痛めつけるのは全く違うことだ」 「分かったわ。席を外させていただきます」 気丈な言葉と裏腹にふらつく足どりでハクシャは部屋を後にした。一人の女性がハクシャと一緒に出て行く。 風で薄い屋根が叩きつけられるような音がしていた。ようやく口を開いたのはヤグラだった。 「彼女が落ち着くまで、橋を架けるのは延期だな」 「どうして」 「彼女を帰すために架けようと始めたんだろう? 今、完成したとしても彼女は渡らないぞ。それに彼女が渡ることを嫌う者もいるだろう」 ふと、カイが動いたのがソドウにも分かった。全ての発端。確かに簡単に割り切れる問題ではなさそうだ。 「明日、現場を見てくれないか? どれだけ進んでいるか、このまま進められるか、師匠の意見が聞きたい」 「いいだろう」 小さくなった灯りが話の終わりを促がしていた。はっきりとした合図はないものの、人々は散り散りに帰路についていく。部屋から出たソドウは、ハクシャに付き添っていた女性に声をかけた。 「さっきはありがとう。ハクシャは?」 「落ち着いたからと言って帰られました。夜道は一人では危険だからと止めたのですが」 「通いなれた道だから心配はないだろう。念のため道を見ながら戻るから大丈夫だ」 ソドウは翁とヤグラとクトウと一緒に宿り木へ歩いた。暗い夜道は何かを隠したがっているようだった。世の中には知らなくていいことのほうが多いのかもしれない。 「ハクシャにとっては知らずに帰っていたほうが幸せだっただろうか?」 ソドウの呟きに翁が振り返った。 「わしはそうは思わぬよ。知ったからこそ、ここに残るという選択肢もある」 「ここに残る?」 「あくまで選択肢じゃがの。ハクシャが選ぶとも思えん」 宿り木が遠くに見えてきた。奥の部屋に儚げな灯りがともる。 「無事に帰っておるようじゃの」 他に人の気配はしない。足音は聞こえず、森の中のようにしんと静まり返っていた。 「カイはまだ戻っていないみたいだ」 纏まりかけていたものが、一瞬でばらばらになる。それとも、もともと纏まってなどいなかったのだろうか。不安が不安を呼びそうになり、ソドウは軽く頭を横に振った。灯りをつけて、ヤグラとクトウのほうへ戻ってくる。 「二人の部屋はこっちだ」 一時期は満員になっていた宿り木も今は閑散としていた。生活の後があちらこちらに見える。修復した廊下、寄せ集めた木々で作った家具。ヤグラはそれらをぐるりと見渡しながら、しみじみと言った。 「随分、色々とあったんだな」 「ああ。今となっては色々としか言えないけど」 クトウは手荷物を床に下ろして、窓の外を見た。雲は緩やかに流れてゆき、小さな星々が次第に姿をあらわしてきた。 「明日は晴れそうだな。今日はもう休ませてもらうよ」 「ああ、ゆっくり休んでくれ」 二人の部屋を後にしたソドウは、小さな灯りがともる部屋の前に立った。隙間からこぼれる灯りは弱々しく揺れ動いていた。ソドウはこれ以上灯りが揺れないように、最小限の声で告げる。 「ハクシャ。落ち着いたら橋を見に来て欲しい。話したいことがあるんだ」 その言葉に返事はなかった。だが、ソドウは待ってみようと心に誓った。 翌日。ヤグラとソドウは橋の下にいた。村人は数人集まったが、カイはとうとう現われなかった。 ソドウは師匠の目線をひたすら追った。足場も橋も十分とは言えないが、出来るだけのことはしている。だが、昨日芯で仕事をしろと言われたこともある。ソドウは祈る気持ちで、最初のひと言を待った。 「よく、ここまで頑張ったな」 ほっと息をついた後、ソドウは真剣な顔をしてヤグラに聞く。 「このまま進んでも大丈夫だろうか?」 沈黙が暫く続いた。さらに様々な角度から橋を見たヤグラはまだ橋の架かっていないラーフジクの方角を見ながら答える。 「技術的には一応問題ないだろう。一度架かったとしても、嵐が来るたびに修復は必要だ。その中で弱いところは補強していけばいい。だが、心はどうだ?」 今度はソドウが沈黙する。波の音が聞こえた。今は穏やかな海にも、嵐は必ず来る。 「嵐は何度でもやって来る。海にも人の心にも。だから、橋が必要なんだ」 「彼女が渡らなくても?」 「渡ってくれるまで待つよ。そうは言ってもまだ話も出来ないんだけどな」 苦笑いをしながら、ソドウは橋を見上げた。完成まではまだ時間がある。それからでも遅くはない。 「とにかく、彼女を信じて橋を架けるよ。形にしてみないと分からないことだってあるんだ」 迷いがないとは言い切れない。それでも形にしてみたいとソドウは思った。 「昨日は聞けなかったんだが」 ふと、重い口調で話し出すヤグラにソドウは首をかしげた。 「何だ?」 「お前と一緒にセイトーロに渡った者たちはどこにいる?」 「あ……」 これだけは自分の口から話さなくてはいけない。ソドウは覚悟を決めた。 「ラーフジクと連絡が取れなくなって、大陸の人間は帰っていった。新天地を目指して彼らも海を渡っていったよ。ハクシャの話によると新天地はないらしいが、はっきりしたことは分からない」 手を握りしめ、もう無事を祈るしか出来ないのだと辛そうに言うソドウに、ヤグラは次の質問をする。 「そうか。あれから大陸の人間は来たか?」 「いや。来たという話は聞いていない。ラーフジクはどうなんだ?」 「ラーフジクも同じだ。あれから大陸の人間は現われない。だが、また奴らはやってくる。その時のために、セイトーロとラーフジクは結束を固める必要がある」 ヤグラは勢いをつけて腕まくりをした。日々の作業で鍛えられた腕はまったく衰えていない。 「急ぐぞ、ソドウ。架けてしまえばこっちのものだ」 緊張が解け、ソドウはぷっと吹き出して笑った。 「ずるいな、師匠。俺が止めると言っても、橋を架けるつもりだったんじゃないか」 「いや、この橋の要はお前だ。お前が揺らいだら止めるしかないと思っていたよ」 「本当かな」 青い空の下、現場は少しずつ活気を取り戻していった。数日経った頃、カイがふらりと橋の下に現われた。カイは少し痩せたように見える。埃っぽいのはどこかへ行っていたからだろうか。 「どこに行っていたんだ?」 「祖堂へ。入る前にニチアイにお前のいるところはここじゃないと追い返されたけど」 カイはそう言って、ばつの悪そうな表情を浮かべた。祖堂に逃げ場を求めるなんて、おかしいことを考えたものだと、自嘲気味に呟いて笑う。 「遠くから橋がよく見えたよ。随分進んだんだな」 「ああ、みんな頑張ってくれている。上手い具合に流れに乗っているよ」 「俺も加わっていいか?」 「いいのか?」 柱を運ぶ度にかけ合う声が聞こえる。カイはソドウの問いにゆっくりと頷いた。 「歩きながら考えた。良くも悪くも彼女がひとつのきっかけだ。それはそれ、これはこれと割り切るにはまだ時間がいる。その時間を橋を架けることに費やしてみようと思うんだ」 日に日に日差しが強くなり始めた。カイが加わることによって、大きな柱が何本も立っていく。その柱は天へと伸びていくようにも見えた。 晴天はいつまでも続きはしない。天はゆっくりと厚い雲を呼び寄せる。ある日、クトウは二、三日中にラーフジクに戻るとソドウに告げた。嵐の時期が近づいていた。 天候に左右されながら急げば急ぐほど、橋の完成は遠ざかるように思えた。焦るソドウが岬を見ると、そこに白い人影が見えた。 「あれはハクシャ?」 手を止めた弟子に、師匠は声をかける。 「行っていいぞ」 鎖が解けたようにソドウは走り出した。その後姿を見ながらヤグラは呟く。 「さて、どのくらいかかるかな」 軽く伸びをしてヤグラは村人たちの方に振り返った。 「せっかく集まってくれて悪いが、今日は終わりにしよう。要がいなくては仕事にならん」 村人は手を止めたが帰る気配はなかった。皆分かっていた。今は少しの時間でも惜しむべきだと。その時、ヤグラの前にカイが立った。 「その役目、俺にさせてくれませんか?」 「お前が?」 鋭いヤグラの視線にカイは真っ直ぐに向き合った。 「勿論、ソドウほど動けないでしょう。でも、止まってしまうよりはずっといい」 「大陸の人間が全て悪でないことは分かったが、ワシの技を大陸にやるつもりはない」 「だったら、セイトーロに下さい。俺はセイトーロの人間になる」 どう動くか迷っていた村人たちが、一斉に注目した。カイとヤグラのやり取りを見守る。 ヤグラは小さくため息をつき、カイを見据えた。 「いずれはそうかもしれない。だが今、お前さんのどこにセイトーロのものがある? 姿形、考え方まで大陸のものではないのか?」 海風が吹いていく。カイはもう自分が何処にも行く気がないのだと確信した。だが、確かに証明できるものは何もない。 「クミヒト」 「え?」 カイは声がした方角へ顔を向けた。そこには足場を組んでいた頃から集まってくれていたシオハタの姿があった。 「この人の名前はクミヒトだ」 「それはどういう意味だ?」 ヤグラはシオハタに向けて問いかけた。 「大きな漁に出る時、誰がどの舟に乗るか決める役目のことだ。大きな流れを全体的に把握していないと出来ない。そして、ひとりひとりを良く見ることが必要だ。本当は名前じゃないけれど、でも、この人は立派な組人だとよくみんなで集まったときに言っていたよ」 「ああ、確かに彼はクミヒトだ」 ぽつりぽつりと声がする。ヤグラは片付けようとしていた工具を手に取り直すと、金色の髪をしたセイトーロの青年へ声をかけた。 「じゃあ行くか、クミヒト」 突然のことに感情がついていかない。だが、そのセイトーロの名の響きは優しく愛おしいものに聞こえた。 「返事は? もうお前の名だろう?」 もう一度促がされて、彼は笑顔で答えた。 「はい」 丁度その頃、ハクシャを追っていったソドウは、波打ち際で舟を動かしているクトウを見つけた。 「兄さん」 クトウもソドウに気づき、軽く手を上げる。 「そろそろ帰るとは言っていたけど、今日、帰るのか?」 「ああ、今日の波なら大丈夫そうだから急に出発することにしたんだ。漁をほおっておくことも出来ないからな。これから波も高くなるから早く帰っておかないとな。後で挨拶に行こうと思っていたんだが、話が早い。ここから直接海を渡るよ」 ソドウはクトウに頭を下げる。 「本当にここまでありがとう」 そんな弟の頭を兄はくしゃくしゃと手荒くかき回した。 「お前のためだけじゃない。親父が通った道を俺も見ておきたかった。親父と同じ年になってようやくここまで来れた」 「気をつけて」 「お前が帰ってくるのをラーフジクで待っているよ」 クトウが舟を浜に運んでいると、目の前にハクシャが現れた。その真剣な顔を見たクトウは手を止めて彼女に向き合った。 「お願いがあってきました。私を舟に乗せてくれませんか?」 「橋の完成まで待てないのか?」 ハクシャは首を横に振る。待てないわけではない。他の理由がこの選択をすることになったのだと、彼女は言った。 「橋は青のかけらで支えられているのでしたよね」 「そうだ。切り立った岩の向こう側は形を変えた聖地が広がっている」 「それなら裏切り者には橋を渡る権利がありません。聖地に背を向けて、他の聖地まで壊してしまうことになったのだから」 ずっと声をかけないでいようと決めていたソドウだったが、とうとう口をはさんだ。 「その時生き残るために一番良いと思った方法を選んだだけだろう。特定の人間を責めるだけで済む問題でもないと、最初に会ったときに君が言ったじゃないか」 「あの時は何も知らなかったのよ」 「もう舟は怖くないのか?」 「勿論、舟は怖いわ。高い波に耐えられるかは分からない。でも、あの橋は渡れない。あれは償いに使うべきではないでしょう」 ハクシャの決心は固いようだ。少し考えた後、ソドウはクトウに向かって声をかけた。 「兄さん、俺とハクシャを舟に乗せてくれないか? 連れて行ってほしいところがある」 「いいだろう」 クトウとソドウは舟を沖へと向かわせた。ハクシャは身を寄せながら乗っているにも関わらず、舟の淵を強く握りしめている。 「この先だ」 切り立った岩の傍に舟を止めると、ソドウはラーフジクを見た。 「確かにハクシャは青の聖地に背を向けたかもしれない。けれど、君の後ろにはもうひとつの真実がある。繋がった緑の聖地がある」 そういって振り返ったソドウが指差したのは途中まで繋がった橋だった。橋はセイトーロに、祖堂に繋がっている。そして、これからラーフジクに繋がっていく。 「今までと一緒だ。一歩一歩、歩いていけばいい。償いとか裏切りとか関係ない。橋はひとつの道にすぎないよ。今までも迷って立ち止まってそれでも歩いてきた。後は一本道だよ、ハクシャ。この道を行かないか?」 この道を行く。繋がった緑の先に青を目指して、歩いていく。罪悪感は消えたわけではなかったが、ハクシャはその景色を見てみたいと思った。それでこそ、この旅は終わるのだ。 「行きたいわ」 透明な涙がハクシャの頬を流れていった。海は雫を含み輝きを増す。 二人の様子に安心したクトウは舟を緩やかに反転させ、セイトーロへ戻した。 クトウが去った後、一つの嵐が過ぎ、修復と新設を同時進行していた橋がようやく形をあらわにしてきた。切り立った岩を境にしていたラーフジク側の橋も繋がり、最後の橋桁がかけられた。 浜には多くの人が集まっていた。今日、ソドウとハクシャは橋を渡る。 来た時と同じように荷物を背負うソドウにヤグラが声をかけた。 「ラーフジクの連中によくやったと伝えてくれ」 「自分はまるで帰らないような言い方だ」 そういえば、ヤグラの旅支度はどこかおかしい。橋を渡るというよりは、山に登るような格好だ。 「ラーフジク側にはお前が、セイトーロ側にはクミヒトがいる。わしは祖堂に行ってくる。この年になってもう一度森に叱られに行くのもいいだろう?」 冗談だと思ったソドウだったが、ヤグラは迷うことなく村から離れていく。 「またラーフジクで会おう。それまで橋はお前達が双方で繋げていてくれるんだろう?」 最後に振り返ったヤグラは成長した弟子と、新たな弟子を交互にみながら、にやりと笑った。 「はい」 ヤグラを見送った後、ソドウはハクシャと橋の前に立った。村人にもう一度手を振ると、ソドウは橋を歩いていく。 「間が空いているから気をつけて」 「波が被ってもすぐ引いていくように作ってあるのね。面白いわ」 「大きな荷物を運ぶには向いていないけどな。この橋はもともと人と人を結ぶために作ったものだから」 ハクシャは目の前のラーフジクを見たあと、振り返ってセイトーロを眺めた。緑の島は小さくなっていたが、自分の足元と確かに繋がっている。 橋は島と島を結ぶためのものだけではなく、人と人を結ぶためのもの。繋がっていることを目で確認するためのもの。 太陽に照らされながら、岩の間を縫うように抜け、青い砂が眠る海の上を歩く。 次第に長いと思っていた橋の向こう側が見えてきた。見知った顔が面影を残したまま笑っている。ようやく、ラーフジクに帰ってきたのだ。 ソドウは足を速めることなく、ゆっくりと地面に足を下ろした。励ますように隣にいるハクシャを見る。 小さく頷いてハクシャはラーフジクの地を踏んだ。湿った砂がしっかりと彼女の足を支えてくれる。 集まってくれていたのは、ラーフジク側の橋を架けた大工たちだった。ソドウは橋を架けてくれた後輩ひとりひとりに礼を言う。ひと通り話をすると、彼はハクシャと共に村はずれへ向かった。そんな彼を顔見知りがからかうように笑う。 「ソドウ。家はそっちじゃないぞ」 振り返るとソドウは大きな声で答える。 「行かなきゃいけないところがあるんだ」 「お袋さんや兄さんにも会わずに?」 「そこに行かないと、この旅が終わらないんだ。大丈夫、今度は島を出るわけじゃないからすぐに帰ってくるよ」 ソドウは足を進める。行き先はもう決まっていた。 「本当にいいの?」 「いいよ。それに、今、立ち止まってはいけない気がするんだ」 休む時間も惜しんで、二人が向かったのはハクシャの村だった。村と言うにはあまりにも寂しい場所に、ソドウは言葉をなくした。ふと、隣に立つハクシャを見ると、彼女は耐えながらも真っ直ぐに相対していた。 「やっぱり人がいないと、こうなるのね」 打ち捨てられた村は以前にもまして、朽ち果てていた。行き場をなくした枯葉が舞う。畑の土は硬くかたまり、全ての音を吸い込んでいた。 「地底の青っていうのは何処にあるんだ?」 「この洞窟の下よ。普段は近寄らないけれど、祭りの時に下りたことがあるの。きっとまだ道を覚えているわ」 ソドウはハクシャの後を歩いた。暗く湿った洞窟はどこか不気味で、苔の匂いを含んだ空気も心地よいものではなかった。 「これ以上、何を見るというのかしら。自分でも分からないわ」 朽ちた村、枯れた大地。追い詰めるような惨状を見ていても、まだ見ていないと進む自分にハクシャは肩をすくめた。 細かった道が急に開けた。目の前には黒い湖が広がっている。その色は青とは言えなかった。 だが、天井に開いた小さな穴から月明かりが差し、湖のほとりに咲く白い花々を照らしていた。白い花は静かに、しっかりと根を張り、揺れていた。それはまるで海のように広がっていく。 それをどう言葉に表わしたら良いのか、ソドウは考えた。再生? 復活? どれも違う気がする。 ハクシャが花へ駆け寄った。彼女は湖と繋がる白い波に手を伸ばす。 「ちゃんと生きていたのね」 ああ、そうだ。ソドウもようやく言葉を見つけた。 「まるで落葉樹みたいだな」 冬になって葉を全て落とした木が、春になって一斉に新芽を芽吹いた時のような感覚。命は目に見えないだけで、力を蓄えていた。 季節は巡り繋がっていく。今見えているものでも、これから先、どんな変化を見せるのかは分からない。ただ、目の前にある風景を心に焼き付けていれば、答えはどこかで見つかる。 広がる花の向こうに緑の島を感じた。遠く近いその場所へ敬意を込めるように、ハクシャは白い花を抱きしめる。抱きしめられた白い波は優しく彼女を包みこんだ。長い旅を終えた古い友人を迎え入れるように。 |
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