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異界の境界の緑 第十九話 木至 (アシカセ) |
冷たい波が何度もよせてはかえしていた。雨が止んだとはいえ、一刻も早くここを離れる必要がある。そう考えたソドウはハクシャに声をかけたが、届く前に波の音にかき消された。 例え声が届いたとしても、ハクシャは気づかなかっただろう。彼女は自らの足に絡みついた金色の糸を凝視していた。振りほどこうと思えば簡単に引き千切ることが出来るはずだった。しかし、それは決して逃れられない鎖のように彼女を捕らえている。次第に薄闇の波は大きくなり、彼女を飲み込むように近づいてきた。 「ハクシャ!」 ソドウは全身を振るわせるように、声を上げて彼女を呼んだ。その声にようやく気づき、ハクシャが我に返ったように振り返る。しかし時は既に遅く、彼女は灰色の空の下に蠢く暗い海へ飲み込まれていった。 ソドウは岩を避けながら、彼女の姿を追った。波と波の間に細い腕が必死で空を掴もうとしているのが見えた。意識はあるようだ。それを確認したソドウは見失わないように、けれど一刻も早く彼女に追いつこうと、海へ飛び込む。 冷たい海は体温を着実に奪っていき、身体は思うように動かない。ハクシャの姿は近くに見えるものの、距離はなかなか縮まらなかった。精一杯伸ばした腕は波に押される。飛沫で目を開けていることすら困難だ。 ふと、波の間に一隻の舟が見えた。木の葉のように漂うその舟に向かってソドウは水の中、身体を進める。小さな舟には人は乗っていない。恐らく浜においてあったものが、この嵐で流されたのだろう。ソドウは波に翻弄される小舟に手をかけて乗り込んだ。 水に濡れた服は重く身体に纏わりつく。疲労も重なっていたが、休む暇はなかった。小舟には何も乗っておらず、進めるには自らの腕で漕ぐしかない。 ソドウはハクシャの姿を再確認すると、波へと挑んでいった。随分、沖へと流されてしまっている。セイトーロとラーフジクを隔てている切り立った岩たちが目の前に迫っていた。あれに衝突したら無事ではすまない。 ハクシャの体力も限界だ。小舟が揺れる中、ソドウは腕を精一杯のばし、ハクシャの腕をつかむ。小舟は二人分の重みを受け、大きく傾く。ソドウはうめき声のようなかけ声をかけると、一気にハクシャを引き上げた。 「ソドウ……」 ソドウの腕の中でハクシャが我に返る。左右に揺れる小舟の中でそこだけが静かだった。ソドウはハクシャの顔を見ながら問いかける。 「大丈夫か?」 「ええ。ありがとう」 青ざめた表情にもう少しで危なかったとソドウは思った。 「岩がこんなに近くに」 呆然としながら、ハクシャは岩に指を伸ばした。遠くから眺めていた故郷への壁。それが、今、目の前にある。 ソドウは岩を見ては居なかった。ハクシャの無事を確かめると、すぐに立ち上がり、海へと視線を向ける。そして、一点を見据えたまま、低い声で言った。 「ここに居てくれ」 波の高さと岩の向きを見ると、ソドウは岩に平行するように小舟を止め、再び海へ飛び込む。 「え?」 ソドウの行動を不思議に思ったハクシャは、彼の上げる水しぶきを目で追った。人が起こす小さな波は金色の糸を捕らえ、波に翻弄されながらも、着実に岩場まで還ってきた。 岩づたいに舟へ戻ってきたソドウをハクシャは混乱しながら迎えた。連れている人物はまぎれもなく大陸の人間だった。 「どうして?」 自分の身すら危ないというのに、彼はハクシャを助けるために海に入った。さらに大陸の人間まで助けた。 「別に深い考えはないよ。手が届いたから伸ばしただけだ。海で人が死ぬのは見たくない」 ソドウの言葉に、無意識に大陸の人間を分けていたことに気づき、ハクシャは俯いた。大陸で自分に起きたことは、まだ思い出に出来そうにない。それでも、ソドウと歩むためには、前に進む必要がある。 ハクシャは意を決したように、顔を前に向けると金色の髪の持ち主の脇に座った。 「息はしているわ。気を失っていたから海水を飲まずにすんだみたい。ねえ、ソドウ。この人、サカキにいた人じゃないかしら?」 平常心を装うハクシャの手は震えていた。ソドウは彼女の様子に気がつかないふりをして、話を続ける。 「ああ、確かに会ったことがある。祖堂で会った大陸の人は彼だけだったからよく覚えているよ。名前はカイだったかな?」 横たわるカイの呼吸の音が聞こえるほど、次第に波は静かになっていった。大小様々な漂流物が岩にぶつかる。その中に、ソドウが加工した神木もあった。あれでは使い物にならない。ソドウは悔しそうに神木を見ていた。 神木は岩にぶつかり、コオンという音が辺りを包み込んだ。音と同時に波紋が広がり、海へ伝わっていく。 ふっとラーフジクの方向から青い光が灯りだす。その光は波紋を辿るように岩影へと向かってきた。目の前が海の中にいるように青く染まる。 「何だこれは」 光によって目を覚ましたカイは、突然の出来事にうろたえていた。ハクシャは光のもとから目を離さず答える。 「青よ。ラーフジクの聖地にある光る岩。それしか考えられないわ」 神木の森にあった木は、内側から光を放つように輝き、海底の青に導かれるように岩をすり抜けていく。ラーフジクの聖地が、セイトーロの神木を引き寄せている。それとも互いに呼び合っているのだろうか。 目の前で起こる見たこともない光景に、ソドウもどう受け止めていいのか戸惑っていた。けれど、これは最初で最後の好機かもしれない。 「ハクシャ、急いで神木に掴まるんだ。ひとりなら十分運んでいってくれる」 ひとりという言葉にハクシャは不安をあらわにして、ソドウの服を掴んだ。 「ソドウは?」 不安に揺れるハクシャの瞳を真っ直ぐ見据えて、ソドウは答える。 「俺はまだ戻れない。神木が聖地に引き寄せられるのなら、橋はきっと架けることが出来る。ここでラーフジクに渡ったら、今までのことが消えてしまいそうな気がするんだ」 ソドウはハクシャの手に自分の掌を重ね、ゆっくりと握りしめられた指を解いた。 「だけど、ハクシャは戻ってくれ。いつになるか分からないことに、君を巻き込むわけにはいかない」 神木は岩場から離れて青へ近づいていく。周辺を染めていた青色は次第に弱くなり、光の元の他は灰色の海に戻っていた。そんな中、ハクシャはラーフジクに背を向けると、セイトーロ側の海へ飛び込んだ。 「ハクシャ!」 灰色の波の間からハクシャが顔を出し、ソドウへ微笑む。 「私も戻らないわ。私はソドウの架けた橋を渡って帰るの。青い空の下、堂々と胸を張って帰るのよ」 それは宣言だった。ソドウは複雑な表情を浮かべた後、小舟をハクシャの元へ進め、再び彼女を引き上げる。 「全く、無茶をする」 苦笑いを浮かべるソドウにハクシャは肩をすくめた。 「ごめんなさい。でも、灰色の海よりあのまま帰ってしまうことの方が怖かったのよ」 もう、間に合わない。神木は行ってしまった。選んだ道を引き返すことはできない。それならこの道を行くしかないのだ。ソドウはふっと息を吐いた後、気を引き締めるように両手で頬を軽く二回叩いた。 「休んでいる暇はない。波がおさまっている今のうちにセイトーロへ戻ろう」 その言葉にハクシャも頷く。もう振り返るつもりはなかった。まわり道をしているかもしれないが、進む方向は決まっている。 漕ぎ出した舟は曲がりながら、かろうじてセイトーロへ近づいていく。風は冷たく、辺りは薄暗かったが、雲の切れ間からわずかに零れるような光が、緑の木々を揺らしていた。 陽が陰る頃、ずぶ濡れになった三人を翁は黙って迎えた。火にあたりながらソドウは静かな口調であったことを翁に伝えた。翁はしばらく考えていたが、小さく頷いた後、横になっているカイを見た。 「そうか。それで、この青年はどうする?」 今の状況は十分すぎるほど分かってはいたが、このまま放っておくこともできない。ソドウは遠慮がちに翁へ問いかける。 「体調が元に戻るまで、ここに置けないだろうか」 「宿り木は旅人が休むためにあるものじゃからの。色々思うところはあるが、受け入れよう」 即座に答えられるより、安心できる答えだった。ソドウは翁に向けて深く頭を下げた。 次の日、水汲みを終えたハクシャにソドウは声をかける。 「小舟を返してくるよ」 「気をつけて」 「心配はいらないよ」 ソドウは明るい表情を浮かべると、村へと下りていった。身体は疲れていたが、今はやらなくてはならないことがある。 浜辺では村人たちが波によって運ばれた様々な残骸や海の生き物の死骸を片付けていた。ソドウは自分たちを運んでくれた小舟を指差しながら、一人の村人に聞いた。 「この小舟の持ち主を知らないか?」 「それは俺の物だ」 少し離れたところから、漁師らしい男性が低い声で答えた。怪訝そうな表情が早く返せと言っているようだった。しかし、ソドウは他のことに気をとられていて、その表情には全く気がつかなかった。 「ああ、そうか。ありがとう。この舟のおかげで沖から帰って来れた。せめて修理させてくれないか?」 男性は答えない。沈黙の中、他の村人がなだめるように声をかける。 「そうしてもらえよ。どうせ嵐の時期が終わるまでは漁にならない」 村に一番近い浜辺で修理は始まった。湿った小舟を乾かし、形の不揃いな木材を浜辺へ運び出す。嵐の後の晴れ間を利用しながら、修理は進んだ。 ある日、焚き木をしだしたソドウを村の子供たちが不思議そうに囲む。 「それは何をしているの?」 「木の表面だけを焼いているんだ。こうすると水が染み込みにくくなる」 「かっこいいね」 小舟の持ち主も気になるようで、日に日に近づいてくる。今日はソドウのすぐ後ろにまでやってきていた。 「確かに面白いな。この繋ぎ方も見たことがない」 漁師が網や舟の修理をするのはセイトーロもラーフジクも変わらないようだ。大きなことを言ったと思ったソドウは少し声を小さくして話しかける。 「橋の材料の残りなんで、どうしても一枚板という訳にいかないんだ。修理なんて言っておいて、これじゃあ納得できないかもしれないけど、見た目よりはしっかりしたものに仕上げるから、待っていてくれないか?」 「橋か。まだ、そんなことを言っている奴がいるんだな。でも、お前なら出来るかもしれん」 嵐は長い間は続かない。少しずつだったが、着実に青空は雲の切れ間からのぞき出していた。 小舟の修理が終わる頃、村のあちらこちらで家の修理が始まっていた。すっかり村の修理屋と位置づけられてしまったソドウは、橋づくりの合間に小屋の屋根に上っていた。生活の役に立つ技を見るため、橋づくりの現場にも村人が入れ替わり立ち替わりやってくる。 忙しい毎日の中、ハクシャも走り回っていた。 「ハクシャ! こっちも怪我人だ」 「かすり傷程度で済んでいるうちに、無茶は止めてくれないかしら?」 心配しながら苦笑いするハクシャに、素人大工たちはばつが悪そうに笑う。 「なかなかソドウのようにはいかなくてね」 ソドウがセイトーロに上陸した時のような活気がそこにはあった。けれど、それは同じものではない。集団の向こうにはまだ、距離をはかりかねている人の目線があった。その中に村長の姿があった。 「村長」 村長と視線が合って、ばつが悪そうにソドウは目を伏せた。宿り木を提供する時の約束は既に守られていない。翁は村へは下りようとしなかったが、ソドウとハクシャは毎日のように村に近い浜へ来ている。 村長は仕方ないというように肩をすくめた。 「もうこうなってしまっては、約束も何もないだろう。俺も見ていていいだろうか?」 安堵のため息がソドウから零れる。監視という意味もあるだろうが、気にしないことにした。 村人の様子を見ていた村長が、ふと一人の青年に目をとめた。 「あれは?」 「祖洞で会った青年だ。名前はカイという」 しばらく宿り木で静養していたカイが、ソドウの作業に加わったのは数日前のことだった。もともと技術者だけのことはあって、カイはソドウが知らない方法で次々と木材を組み合わせていく。見たこともない文字が浜を埋め尽くしていた。 「あれは君たちにとって良くないものではないだろうか」 「彼も浜に下りてくるのは乗り気ではなかったんだが、どうしても上の作業場では出来ることが限られていてね。彼の技術は助けになるよ」 「技術はあっても彼は何も話さない。我々も話すことはしないだろう」 辺りが緊迫しているのは、ソドウも感じていた。あの金色の髪は異質なものというだけでなく、大きな傷の象徴でもある。 間もなく、小競り合いが始まった。 「帰れ! ここはお前のようなものが来る場所じゃない」 村からやってきた老人が怒りに声を震わせながらカイに対峙する。老人の息子は大陸に連れていかれたまま、帰ってはこない。 「まだ何か奪おうというのか」 完全に興奮している老人を村長とソドウとで止める。カイは何も答えず、その場を去っていった。 カイが誰かを直接傷つけた訳ではない。彼も大きなうねりに巻き込まれた被害者だ。それでも彼の容姿が傷ついたものをさらに傷つけることには違いなかった。 老人を家まで送っていく村長に向かって、ソドウは寂しそうに言う。 「こうなることは分かっていたよ。だけど、結果を急ごうとは思っていない。それでも考えが甘かっただろうか」 「何を優先とするのかだ。道は困難でないほうがいい。よく考えろ」 しんと静まり返った浜辺で波の音がざわめくように聞こえる。ソドウはカイが去っていった方向を見た。小屋へ戻ったのだろうか。 「ハクシャ、ちょっと行ってくる」 声をかけられたハクシャは首を横に振った。白い髪が左右に揺れる。 「いいえ、私が行くわ。行かせてちょうだい」 昼下がり、翁は新たな旅人を宿り木へ迎えるために、祖堂の境目へ出かけようとしていた。そこへ、カイが飛び込んできた。 「浜の様子はどうじゃったかの?」 「ああ、思ったより人が集まっていた」 目を合わそうとしないカイへ、翁は問いかける。 「お主は何故戻ってきた?」 「俺は村へは行かないほうがいいようだ。夜になったら橋の手伝いに行くよ」 「お主の姿は余りよくない思い出を呼び起こすのでな」 「ああ、分かってる。居させてもらっていて、こういうことを言うのもおかしいがここも居づらい。俺がいるだけで場が張り詰めてしまうんだ。どこか他の場所、作業場でもいいから移らせてもらえないだろうか」 その申し出に翁は首を横に振った。 「それは出来ぬよ。村長との約束で我々が住めるのはこの小屋だけと決まっておる。今も、ソドウがここから浜へ通うのはその配慮もあるのだよ。そもそも、人と関わりたくないというなら祖堂を出ないという選択もあったのではないか?」 「確かにあのまま祖堂に残ることが出来たかもしれない。記憶と名前を無くしてしまったところで、帰るところがないのは同じことだからな。でも、それでは俺は役人に騙されてラーフジクに渡り、島の人たちを騙しただけのことになってしまう」 祖堂を歩きながら、ずっと考えていたことをカイは翁に話し続ける。 「それなら橋を架ければいい。偽りも本当にしてしまえば、少しは苦しみから逃れられるかもしれない。俺は橋を架けたかったんだ。ソドウが先に成し遂げそうだがな」 苦笑いを浮かべるカイに、翁は目を細めた。 「あれはソドウの役目かもしれぬな。しかし、お主の役目もきっと用意されている。全て見ていくがいい。その為の場所はここにある」 「俺の役目なんか分かってる。この姿さえ変わればもっと橋に関わることが出来るのに」 「どう変わるかはお主が決めることじゃ。しばらく一人で考えるのも良かろう」 翁はそう言うと、森へと姿を消した。 「どう変わるか、か。そんなこともう分かっている」 静かな部屋で、カイは低く呟いた。 その頃ハクシャは小屋が見えるところまで戻ってきていた。咄嗟に自分が行くと言ってしまったけれど、カイに何が言えるのかハクシャは考えながら足を進めていた。 「きゃあああ!」 小屋から女性の悲鳴が聞こえて、ハクシャは急いで小屋へと向かう。 扉は開いていた。女性は目を丸くして、部屋の入り口に立っている。 「何があったの?」 がくがくと震える彼女にハクシャはゆっくりと問いかけた。 「息子の熱が下がらないから薬を貰いに来たの。そうしたら、あの人が棚を荒らしていて」 指差す先を見ると、そこにはカイが立っていた。無造作に散らかされた薬草や木の根の中から、ハクシャはひとつの包みを拾い上げる。 「大丈夫よ。はい、熱さましだったわね。早く帰って飲ませてあげてちょうだい」 困惑の表情を浮かべる彼女を送りだすと、ハクシャはカイへと向き直った。 「さて、と」 この状況は一体何だろう。開かれている包みは大きなものばかりで、何かを探しているようだ。ふと、あることに気がついてハクシャはカイへ問いかける。 「木の根ばかり集めて、何を染める気かしら?」 開け放たれた窓から草木の香りを含む風が入り込み、ハクシャの髪を揺らした。白い髪と自分の金色の髪を見て、カイはぽつりと答える。 「髪を」 「そうでしょうね。どれもこれも濃い色水を作るものばかり。でも、染めることが出来るものは一部だけよ」 「どれなんだ。どれなら髪の色を変えられる。君になら分かるだろう?」 誰のせいで自分はこんな思いをしたというのか。勿論、直接彼が関わったのではないことは頭では理解している。それでも簡単に許すことも忘れることもできない。カイを受け入れられない村人の気持ちもきっと同じなのだろう。その痛みを抱えたまま、彼女は黙ってカイを見つめる。 「このままでは何も進まない。姿を変えることで何かが変わるというのなら、俺は大陸の人間であることを捨てられる」 これまで来た道を全て捨てても、やり遂げたいことがある。ハクシャはそんなカイの中に、祖堂を旅していたころの自分を見たような気がした。 自分と同じ痛み。同じ苦しみ。選ぶ道も同じだろうか? 「髪の色を変える方法は知っているわ。髪の色を変えたい気持ちも理解できる。けれど、それでいいのかしら?」 「生まれ故郷に帰るつもりはない。君たちのところよりずっと遠いのだから、俺ひとりでは帰ることはできない。だから、この島で生きていく覚悟は出来ている」 「それなら、なおさら教えられないわ。これからもし、一生をともに出来る人が現れたらどうするの? 嘘は嘘を呼ぶだけ。髪が伸びる度に何度も染めながら、偽りの自分を水面にうつすなんて悪趣味だわ」 ハクシャはこれからも見据えた上で、自分のことを考えてくれている。カイはそう感じ、必死の訴えを続ける。 「ではどうしたらいい。俺がいることで村人が橋から離れていく。ソドウは何も言わないが、このままでは彼の足枷になってしまうだけだ。まだ、間に合う。顔を覚えられていない今なら」 許すことは出来ない仕打ちを思い出し、ふっとハクシャの表情に影が差した。 「足枷。大陸で付けられたことがあるわ。重くて痛くて、自分では外せない」 「ああ、そんなものにはなりたくはない」 カイは自分の痛みより、ソドウへの負担を気にしている。それなら、ソドウにその不安を取り除いてもらうのが一番だとハクシャは思った。痛みと不安は同時には抱え込んでいけない。 「ソドウに聞いてみればいいわ。貴方を足枷と思っているかどうか。姿を変えるのはそれからでもいいでしょう?」 ハクシャに促がされ、カイはソドウの元に戻った。ソドウは浜辺から川上に移動して、木材を運んでいるところだった。途切れ途切れに問いかけたカイにソドウはあっさりと答える。 「アシカセ? ああそうだな。その表現が一番近い」 落胆するカイにハクシャはかける言葉が見当たらず、口を閉ざした。まさか、そんな答えが返ってくるとは思いもしなかった。 二人の様子に、ソドウは首をかしげる。 「何か変なことを言ったか? アシカセってこれだろ?」 ソドウが指差したのは足の甲から裏にかけて巻きつけられた縄だった。 「縄?」 「これがあれば水の流れに負けることなく、立っていることが出来る。今の俺にとって、俺を信じてくれて、助けてくれる人すべてがアシカセだよ」 「そうか、それがアシカセか。同じ言葉でも随分と違うものだな」 重荷になるかそれとも支えになるか。それは自分で決めることかもしれない。カイはソドウの隣に立った。アシカセの支えがない身体はぐらりと揺れて、水しぶきをあげながら倒れる。座り込んだカイにソドウの手が伸ばされた。その手を取りながら、カイは言った。 「俺は変わっていきたい。ここに来て良かったと言えるようになりたい」 「時間はかかる。追い打ちをかけるような痛みを何度も経験するだろう。それでも何かは変えていける。俺はそう信じているよ」 「少しずつ、話をしてみるよ。痛みの象徴としてではなく、個人として認めてもらえるように」 その言葉通り、カイは翌日から浜へと下りはじめた。潮が引くようにいなくなった村人たちだったが、ソドウは気にしない。 「潮はそのうち戻るさ。ここまでの道のりに比べたら少しの間だよ」 口で言うほど簡単な話ではなかった。けれど、ソドウは黙々と作業を続け、ハクシャは彼の変化を見逃すまいと傍に居続ける。 二人は自分が進む困難な道に付き合おうとしているとカイは感じた。いや、それはそれぞれのための道だったのかもしれない。そして、カイは姿を変えようとは言わなくなっていた。ハクシャの手によって木の根たちは静かに棚に納まっていった。 嵐は来ては去る。毎日同じことの繰り返しを続けながら、合間に言葉を交わす。何人もの旅人が宿り木を去っても、カイはそのままそこに居続けた。 嵐の時期は終わり、雲ひとつない青空が広がっていた。誰も来なかった浜辺に若者たちがぽつりぽつりと現れ始める。 その中心にカイはいた。 「次の作業、縄編なんだが、俺と誰が行けばいい?」 若者の問いにカイは即座に答える。 「カゼミチとなら、シオハタがいい。さっきひと段落して休憩していたから行けるだろう」 「分かった。声をかけてみるよ」 汗を拭きながら一人の青年がカイに声をかける。 「こういうのは大将がするものだと思っていたけどな」 冗談めかしていう彼に、カイも日に焼けた顔から白い歯をのぞかせて笑う。 「うちの大将は人を見るより木を見るほうが得意だから」 「ずっと、動いていると疲れるだろう。少し休むといい」 「ありがとう。そうさせてもらうよ」 橋に積極的な若者しか浜には現れない。そして、彼らもカイの名前は呼ばなかった。目の前にいる人物がどこから来たのか、何があったのか忘れたがっているように、カイには思えた。 あのまま、大陸の船が去ったりせずに、橋の工事が行われていたら、とっくの昔に大きな橋がここにあっただろう。カイは悔しさをこらえきれずに下唇を噛んだ。 「まだまだだ」 呟くカイに木材を運んできたソドウはゆっくりと首を振った。 「違う。これから、なんだよ。それに」 途中で言葉を止めたソドウを不思議に思ったカイは後ろを振り返った。白い砂浜の向こうから、誰から走ってくる。その只ならぬ様子に、現場に緊張がはしった。乾いた風にのった声は、ひとつの言葉となって彼らへ届いた。 フネガキタ、と。 |
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