Xiang-ge-li-la! 第一話 桃源郷 |
それは、一冊の求人情報誌から始まった。 二色刷りされた薄い紙に書いてあるのは、見知らぬ住所。 『短期アルバイト募集。ホテル売店での販売作業。寮完備。時給七百六十円。残業有』 情報はそれだけで、お世辞にも十分とは言えなかったけれど、バイトを辞めたばかりで、他に予定もなかった私はすぐに履歴書を送った。それから数日後、あっさりと採用が決まった。面接をしようにも遠すぎるんだろう。 出発間近になってようやく友達に電話をかけまくる。ひと月ほど遠くへ行くけど、帰ってきたら遊んでねと伝えるためだ。 「前に話したバイト、来週から行ってくるね」 『何でそんな遠い所へ?』 理由が分からないと誰もが聞いてきたけれど、私は答えることが出来ず、曖昧に笑った。 今の中途半端な自分から抜け出したかった。寮生活ってのにも若干興味があった。けれど、『どうしても行きたい』以上の言葉は見つからないまま、出発の日はやってきた。 早朝、空がまだ真っ暗なうちに旅行カバンを抱えて家を出る。新幹線に五時間、普通列車に一時間半。バスを乗ろうとしたら二時間待ちだったので、タクシーに乗り込んで三十分。私はずっと変わらない風景に途方に暮れた。本当にどうしてこんな遠いところに来たんだろう。小さなカバンを握りしめながら不安と戦っているうちにも、タクシーはどんどん山道を進んでいく。 「こんな山奥にホテルがあるんですか?」 間違いはないだろうけど、あまりにも不安が押し寄せてくるので、私は後ろの座席から乗り出すと、運転手さんに聞いた。 「ああ、白鳳さんの売りは秘湯と農園だからね」 この質問に慣れているのか、運転手さんはのんびりと答えた。 その答えに脱力して座りなおした私は、カバンから採用通知と一緒に送られてきた書類を出して広げる。昨晩から何度も繰り返してきた動作だった。線と点だけで描かれたアバウトな地図は、現在地がどの辺りなのかも分からない。 ずっと地図を見ていても車酔いするだけなので、諦めて外を見ていると、ホテル白鳳という黒い木で出来た看板が現れた。宿泊客でもないのに正面玄関で降りるわけにもいかないので、駐車場で降ろしてもらう。 書類には駐車場から事務所への道順が、黒くて大きな矢印で書いてある。それに沿って歩くと簡単な作りの白い扉が見えた。私は事前に電話で言われた通り、隣にあるインターホンを押す。 すぐに返事が聞こえて、そのまま入って来るように言われた。中に入ると薄いブルーグレイのベストにタイトスカートの女の人がいて、暗い通路を歩いて小さな会議室に通された。 「しばらくお待ちください」 部屋の中央にあるパイプ椅子に座るときしむ音がした。慌てて浅く座りなおす。 隣に長い黒髪の子が座っていたので簡単に挨拶をする。彼女は呉(ウー)さん。中国から来た留学生で、休みを利用しての社会勉強だそうだ。さらさらの髪に長い手足。なるほど、アジアンビューティだ。 ノックが聞こえたので話を止めると、扉が開いて書類を持った女の人が部屋に入ってきた。私たちは慌てて椅子から立ち上がる。 「佐藤美鈴さんと呉霞潤(ウー・シャァルン)さんですね。私は事務所の原です」 ベテラン事務員といった風貌の原さんは軽く会釈した。私たちも挨拶をすると、原さんが座るのにタイミングを合わせて、もう一度きしむ椅子に腰掛ける。 書類と制服が机の上に置かれて、説明が始まった。原さんは私たちの履歴書を一瞥した後、余計なことは話さずに、書類に沿って簡潔に説明を続ける。私でさえ書類の文字を追うのに必死なのに、呉さんは大丈夫だろうか。原さんが書類をめくる瞬間、ちらりと呉さんを見ると、彼女は全部は読めないと諦めたのか、ひと言も聞き逃すまいという気迫で原さんを凝視していた。 「何か質問はありませんか?」 そう聞かれて、私は頭の中で話を反芻した。 仕事は明後日からで、契約農園の直売所での梱包作業と販売。寮は社員寮と短期バイトの寮があり、私たちは短期バイトの寮に入るということ。給料日は毎月二十日。その日は印鑑を持ってくること。 書類にも書いてあるし、大丈夫そうだ。呉さんを見ると、何とか大丈夫なようで、にこりと笑った。 「ありません」 「ないです」 原さんは私たちの返事を聞くと、広げていた二枚の履歴書を重ねると立ち上がった。 「あとは寮でお話しましょう」 原さんの後について裏の駐車場に行くと、白い軽トラに乗るように言われた。助手席は当然一人しか乗れず、一人は荷台に乗らなくてはならない。 「私が乗ります」 「いいえ、私が」 呉さんと私は座席の譲り合いをする。そもそも、荷台に乗っても大丈夫なのだろうか。そっちの質問を先にした方がいいような気がする。 「荷台って、人が乗っても大丈夫でしたっけ?」 「ここからは公道ではありませんから、大丈夫ですよ。ただ、道があまり良くないので落ちないでくださいね」 違反ではないことを確認した私たちは、安心して二人で荷台に乗り込んだ。荷台には木の葉が何枚か張り付いていて、私は何となくそれを剥がそうとしていた。こういう中途半端な汚れは無性に気になる。 山深くなるにつれて予告どおりの悪路が続き、身体は上下左右に揺れた。 「何だか、売られていく子牛の気分」 頭の中でドナドナが流れた。あの子牛は最後どうなるんだったっけ。いやいや、あんまり変なことを考えるのは止めよう。意味もなく不安になってくるから。 荷台から振り落とされそうな急な曲がり道を過ぎると、そこには桃の木があたり一面広がっていた。 桃の匂いで充満しているピンクの洪水。ここは日本なんだろうか。いや、そもそも人が住んでいるところなんだろうか。 「Xiang-ge-li-la!」 私が言葉を失っていると、隣で呉さんが感嘆の声をあげた。耳慣れない言葉だ。 「それ何ですかぁ?」 今度は縦に揺られながら私は呉さんに聞いた。 「お話です。桃が沢山あるユートピアの」 「ああ。桃源郷」 なるほど、確かにそうだ。ここは見渡す限り桃だらけで、今までいたところとは別世界だ。 車の速度が急にゆっくりになって止まった。運転席の窓から原さんが顔を出して、荷台の呉さんと私に言う。 「あそこが直売所です。明後日は直接、直売所に出勤してくださいね。担当の吉木が居ますから」 原さんが指差した先に小さなログハウスとガラス張りの建物があった。書類によると、ログハウスが直売所。ガラス張りの建物がバーベキューハウスだろう。私は直売所勤務だから、手前に行けばいい。 原さんの顔が車の中に入ると、再び揺れが始まった。これ以上乗っていたら絶対酔うと思ったとき、車が止まった。 車体は後ろに大きく傾いているけれど、原さんは気にしていないようだ。車から降りると、荷台にうずくまる私たちに向かって言う。 「ここが一葉寮です」 揺れに対抗するのに必死で、建物なんて見ていなかった。ゆっくりと顔を上げると、そこには木造二階建ての古びた建物があった。 |
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