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  異界の境界の緑  第四話 木密 (シキミ)
 
 次の森へ辿り着くと妙な様子にソドウは辺りを見渡した。
 その森は一部が鬱蒼としていた。正しくは、暗い森と明るい森が入り組み、ひとつの森になっている。
「奇妙な森だな」
「そうね。今、祖堂は均衡が崩れているから。旅人が『始まりと終わりの祖堂』に帰ることも難しくなっているわ」
「始まりと終わり? 何なんだそれは」
「二つの森が、一つの祖堂を形成しているの。トリネコとヒイラギは『始まりと終わりの祖堂』。ここは『光と闇の祖堂』よ」
 ソドウはハクシャの『光と闇』という言葉に、もう一度辺りを見渡す。普通の森とは違う気配がするが、それだけだった。
「ソドウ、気をつけて。彼らが近くにいるわ」
 張り詰めたようなハクシャの声に答える間もなく、ソドウは背後の暗闇から伸びる二本の白い腕に頬を掴まれた。それは最初からソドウを狙っていたようだった。
 すらりと細い腕だ。指は長いが大きな力がありそうには見えない。しかし、どれだけソドウが抵抗してもその手は張り付いたように離れなかった。そればかりでなく、ソドウは黒い森の中に引き込まれていく。
 ハクシャは無事だったか。
 そう思いながら身体の半分が引き込まれた時、明るい森から人影が現れた。
「鬼に選ばれたようだね」
「じゃあ、君はこっちだよ」
 人影は動いているせいで正確な人数は分からないが、五人より多く十人より少ない。
 ハクシャは明るい森へと連れ去られていく。
「ハクシャ!」
 ソドウは驚きながらハクシャを呼んだ。声は何とか届いたようだ。
 ハクシャは逃れようのない道を行く人のように目を伏せながら静かに微笑んだ。
「私は大丈夫。後で会いましょう」
 彼女はこうなることが分かっていたのだろうか。ソドウは引き込まれながらも、必死で抵抗しようとした。
 その動きに白い腕の持ち主がようやく声を発した。
「大丈夫。身の危険はない。心はどうだか分からないけれど」
 静かなそれでいて不思議な中性的な声に、ソドウは困惑した気持ちをぶつけた。
「何なんだ一体!」
「これはこういう旅だよ。自分と向き合わなければ何も見えない」
 ソドウの身体は完全に闇の中にあった。足元にあるはずの地面も頭上にあるはずの空も闇に飲み込まれている。
 どれだけの時間が過ぎているのだろう。次第に立っているのか横になっているのかさえも分からなくなってきた。
 目は開けているのだろうか。身体中が重く、手を動かすことすら出来ない。何か香のような香りがする。その答えは不思議な声が教えてくれた。
「シキミの香りで黒い夢を見るよ。誰だってその身の内に闇を持っているのだから」
 一体ここはどこなんだ。どうなっているんだ。どれだけ聞きたくても声は出なかった。
「夢から覚めることが出来たら頼みたいことがある。自己紹介はそれからだ」
 声がどんどん遠くなる。
「おやすみ、よその人」
 そして辺りには闇だけの世界が残った。
 
 
 それは夢を見ていると、はっきり確認することが出来る光景だった。
 青い海、小舟に網を積み込む人々、風に揺れる細い木々。見慣れた風景だがここにはない風景だった。これは、ラーフジクだ。俺が生まれた村だ。
 木陰に隠れるように座り、ナイフ一本で小舟を作ろうとしている無謀な少年は俺だ。
「ソドウ、舟はいくらでもあるじゃないか。どうして乗らないんだ」
 小さな俺に話しかけているのは兄さん。
 真っ黒に日焼けをした海の男。父さんにそっくりだと今でも思う。兄さんと目をあわせるのを避けるように、俺は手元ばかりを見ている。
「乗るのは好きじゃない。泳ぎだって兄さんたちみたいに上手くいかないし」
「そんなの俺がいくらで教えてやるって。お前だけだぞ、うちで漁に出ないのは」
「もういいから、ほっといてくれよ!」
 冷たいものが手の甲に落ちる。雨だろうか、涙だろうか。
 ふと空を見上げるとそこには空から落ちてきそうなほど重い雲が広がっていた。
 場面はその日の夜へと変わっていた。
「父さんの舟は?」
「まだ帰っていない」
 外は嵐だ。島ではよくあることだった。ただ、いつも帰ってきていた父さんが帰ってこないことを除いては。
 砂浜に打ち上げられた舟の下に父さんを見つけたのはその数日後のことだった。ぐったりとしていて動かない様子に、兄さんは医者を呼びに行った。
 父さんは焦点の合わない目線を宙に漂わせたまま、手探りで木箱を探り当てた。
「ああ、良かった。流されずにすんだか」
 手渡されたのは、小さな俺にとって一抱えもある木箱だった。
 道具箱だ。これを買うために父さんはいつもと違う海域へ行き、嵐に巻き込まれたんだ。
「ソドウ。お前にこれを」
「どうして?」
「あのナイフじゃ、何も作れないだろう。いつか俺の舟を作ってくれるんだよな」
「そんなの」
 そんなの、どうでもいいよ。
 俺は逃げていただけなんだ。兄さんみたいに漁が上手くならない。弟たちにすら泳ぎでぬかれてしまう。舟を作っていたのも、誰かを乗せるためだけじゃない。
 俺を忘れないで欲しかっただけなんだ。気にして欲しかっただけなんだ。本当に自分のことしか考えていなかったんだよ。
「お前はお前の好きにすればいい。自分を信じていけ」
 嫌だよ、父さん。そんな別れみたいなことどうして言っているんだよ。
 そんなのもっと爺さんになってから言う言葉だろ?
 いい気になるんじゃない。お前が出来る事はまだ少ない。
 そういって頭にゲンコツが落ちてくるようじゃなきゃ、父さんじゃないよ。
 闇が来る。どす黒い闇がやって来る。
 もう新しい言葉は聞くことが出来ない。それはこの闇から抜け出すことはもう出来ないということだろうか。
 父さんはもう帰ってこなくなった。だれも辿り着けないところに行ってしまった。
 俺も行くよ。
 足はこんな状態でも前に進むことが出来た。うつろな目をしたまま、誰もいない黒い夜の海へと足を踏み入れる。
 波が胸まで来た時、後ろから強い力が小さな自分を引き戻した。
「馬鹿!」
「母さん」
 母さんが泣いている。
「何十年先になるか分からないけれど、一番最初に父さんに会いに行くのは母さんよ。あんたたちは後でゆっくり来なさい。抜け駆けしたら許さないからね」
「抜け駆けって、母さん」
 誰も自分を責めないことが辛かった。家から兄と二人の弟が走って来る。俺はそんな価値などないのに。
 それとも価値なんて必要ないのか?
『自分を信じていけ』
 その言葉の本当の意味はまだ分からなかった。迷っている姿が不憫だったのか、漁師に向かないと見限ったのか。
 答えは闇の中だ。だが、この闇と肩を並べて歩く決心は着いた。
「父さん。俺、自分を信じていくよ。だって、自分に最期まで付き合えるのは結局自分だけだから」
 それが、今の答え。
 だけど、きっと何年、何十年経っても父のあの言葉を胸に進んでいくのだろう。
 ソドウは自分が鳥か風になったように、見慣れた風景から離れていくのを感じた。
 ああ、夢が終わる。
 
 
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