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  異界の境界の緑  第六話 木神 (サカキ)
 
 光の森にある道は人の手が入りすぎているように思えた。獣道すらなかったエンジュの付近とは違い、どこまでも続く平らな道に違和感すら感じる。
 ソドウは来た道を振り返る。闇の森を出た後、一度祖堂からも出たようだったが、次の入り口が全く分からない。
 境目はどこだろうか。ソドウは珍しく身構えていた。
 真っ直ぐな道の向こうに人影がみえる。ハクシャではなさそうだ。
「ようこそ。光の森へ」
 男性は大陸の人だった。どうして大陸の人がここにいるのだろう。
 その問いを口にする前に男性は来た道を戻っていく。ソドウは慌てて後を追った。
 彼はソドウと同じぐらいの背格好をしている。当然、歩く速度もそう変わらない。
 そして、どこが境目か分からないまま、森の奥深くまで来てしまった。
「案外すんなりと入れるものなんだな」
 前を歩くだけで何も言わないその人にソドウは話しかけた。
「そんなまやかしは要らない。ここは誰でも入ることが出来る」
「君がサカキの樹木医なのか?」
「いいや。あの方がこんな所までいらっしゃることはないよ。それに樹木医という言葉も相応しくない。あの方が無ければサカキも無い。君はそれを今から知ることになるだろうよ」
 それから彼は口を開くことを止めてしまった。
 どうやらあまり話し好きではなさそうだ。とりあえず、サカキに連れて行ってくれることは分かった。そこで待っている人物に聞くことにしよう。
 ソドウのはるか頭上で木の葉が触れ合う音がする。
 音のする方へ目線を上げると、光の粒が木の葉を瞬くように行き来していた。
 気を取られ過ぎたのだろうか。それとも案内人が居ることに安心しすぎてしまったのだろうか。
 急に足元が不安定になり、ソドウは手をつく余裕さえなく地面に座り込んだ。
 枯れ枝が右脚に刺さり、小さく傷を作る。
 かすかな痛みにソドウは眉を寄せた。しかし、森を歩いているとこんな傷は珍しくない。すぐに枝を抜き、立ち上がって体勢を整えると、前に居た案内人は身体を前にしたまま顔だけ振り返ってそっけなく言い放つ。
「大丈夫、ここは歩きやすいから大して支障はない」
 一瞬、坂があるなら教えて欲しかったと思い、ソドウは苦笑いをする。
 この人のせいではない。自分の道を行くのに注意を怠ったのが悪い。
 ソドウは気を取り直して進んだ。
 それからの道はどこまでも平坦で、どれだけ進んだのかまったく見当がつかない。
 ようやく行き止まりが見えてくると、そこには空へ真っ直ぐ伸びるサカキがあった。
 サカキの向こうには二本の細い瀧があり、その中央にある岩に光沢のある白い服を着た男性が座っていた。
「あの方がカミオリ様だ。神の領域へ入ることを許された人」
 案内人はカミオリの前に跪くと、ソドウにも同じように跪かせた。
 よく意味が分からないけれど、これも挨拶の一種なのだろうか。
「ご苦労だった。もう下がってよい」
 カミオリがそういうと、案内人は頭を深く下げ立ち去っていった。
 結局、名前すら聞けなかったな。
 案内人が去った方をぼんやりと見ながらソドウはそう思った。
「そなたが来る事は白い髪の者に聞いていたよ」
「ハクシャは?」
「エンジュへ。すぐに戻ってくるそうだ」
 カミオリはソドウと目をあわさない。
「残念ながら、ここはそなたの手を必要としていない」
 こうなってくるとさすがのソドウもカミオリが自分に対して、敵対心をもっているのが分かった。
 凛とした声で完全に拒絶している。
「白い糸を持つ者は道を紡ぎ、木を見る者は堂を修復する。他にも色々な者が来るが此処にはどれも必要ない。早々に立ち去れ」
 どうしてカミオリがこのような態度をとるのかソドウには想像がつかない。とにかく自分の意思だけは伝えておくことにした。
「俺は何かをするためにここに来たわけじゃない。ただ、ハクシャがここに戻ってくるならここで待ちたいのだが、駄目だろうか」
 その瞬間、カミオリの表情が若干だが和らいだ。
「地には地の掟がある」
「それは守るよ」
 ソドウの言葉にカミオリは満足そうに答えた。
「よいだろう。村の人間には話をしておこう」
 カミオリから言われた地の掟はふたつ。
 ひとつは村に滞在するものは村の仕事をすること。
 もうひとつは名前を呼び合わないこと。
 そう聞いてはいたが、実際に村に入りソドウは驚いた。話をするというより用件のみを言い合っている。しかも、相手以外には聞こえないくらいの小さな声だ。
 祖堂の中に村を見るのは初めてだった。村は小さいが整然としていた。子供もいるのに静か過ぎる。
 名前が必要ないというのも良くわからない。
 名前は役目を持つとモクノイは言っていたのに、それはセイトーロ全体の話ではないのだろうか。
 疑問はひとつも解かれないまま、ソドウは村人の作業へと加わった。
 
 
 光の森の一日は変わることなく、毎日が同じように過ぎていった。
 朝、大部屋で目を覚ますと、家の外では食事の用意がされている。食事をとったあとは道の整備と、害虫駆除の作業が待っていた。
 大柄なソドウは出来る仕事が多く、脚の痛みも忘れてひたすら働いた。村の人間はソドウをよそ者扱いしたりしなかったし、なにより自分が必要とされていることが嬉しかった。
 右脚の傷が心なしか深くなっているような気がした。しかし、普通に動くことが出来るので作業に支障はない。
 傷口を縛っている布を取り替えると、ソドウは害虫駆除の作業へと戻った。
 光を知れば知るほど、陰りが気になり、小さな雑草や害虫を取り除きつづけた。
 黙々と作業を続けていると名前を呼び合わないことも、大して問題はないように思えた。
 ここに名前は必要ない。個性も必要ない。ただ出来ることを黙ってするだけだ。
 争いも苦しみもない。言葉も必要なく、村人は身振り手振りで用件を伝えあった。
 時折、カミオリの姿を見ることがあったが、お互いに声はかけなかった。
 カミオリはますます光に溢れ、人と思えないような空気を纏っていた。そう、まるで神のように。
 ああ、ここに居れば何も恐れることはない。
 次第にソドウは外に出ることを考えることをやめてしまった。
 だが、ソドウの傷口の血はとうとう流れるまでになっていた。それでも彼は変わらず働きつづける。
 
 光の森にも夜はやってくる。
 日が傾いてくると、村人は急ぎ足で家へと入っていった。
 その日、ソドウは急な脚の痛みに歩くことが出来ず、道へ取り残された。
 誰も彼に気が付かなかった。ソドウもこの静けさを崩すことが恐ろしく声を出せなかった。
 自分の血の跡が道を汚していく。それに耐えられなくなり、ソドウは脚を引き摺りながら道を外れ、小さな木の下に倒れこんだ。
 辛うじて目を開ける事はできた。見上げると枝の合間から小さな蜘蛛が現われた。
 木には白い花が咲き、葉は艶やかな緑色をしている。虫が居るなど思いもしなかったのだろう。
 すでにソドウには蜘蛛を取り除く力はなかった。ただぼんやりと見つめる。
 蜘蛛がゆっくりと地面へと下りてきた。糸が月明かりに照らされて白く光る。ソドウは糸へ重い腕を伸ばした。何かとても大切なことを忘れている気がする。長くて白い糸はソドウの手をすり抜けたが、夜風に揺られて、もう一度戻ってきた。
 そうだ。俺は戻ってくる人を待っていた。一緒に旅立つために。
 ソドウは固まっていた唇を動かし、暫くぶりの声を絞り出すように発した。
「……ハクシャ」
 その声に答えるように、ソドウの手の中の白い糸は白い髪へと変わり、ぼんやりとした輪郭が見えた。柔らかな女性の形をしていた輪郭は次第にはっきりとしていき、幻が現われるようにソドウの目の前に、ハクシャが現われた。
 
 
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