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異界の境界の緑 第七話 木支 (エダ) |
琥珀色の瞳がソドウを見下ろしていた。強風に流された白い髪が、月明かりに照らされて絹糸のように輝いている。 ハクシャはソドウが自分を見ているのを確認して、安心とも放心とも取れる表情で息をひとつ吐くと立ち上がった。そして、ソドウの脚を前にして地面へ膝をついた。 「ソドウ。右脚をどうしたの?」 ハクシャはソドウの傷口にそっと触れた。出血は多いが、そこまで深い傷ではなさそうだ。痛みは傷を忘れない為に発し続けられていた筈だ。それを覆うだけの光がここになければ、もっと早く処置がされていただろうに。 「水を探して来るわね」 ハクシャはゆっくりと立ち上がり、地表に流れていた水の道を追っていった。岩肌を清水が流れている。傷口は良く洗ったほうがいいだろう。そう判断したハクシャは、ソドウに駆け寄った。 「少し、動けるかしら?」 ソドウの返事はない。仕方なくハクシャはソドウの右脇に自分の身体を入れ、少しずつ水のあるほうへ移動しようとする。 だが、二人には体格差がありすぎる。ソドウが少しでも自力で歩いてくれない限り、たどり着くまで相当な時間がかかりそうだ。 「ここが整備されている森で良かったと初めて思ったわ」 ソドウにハクシャの汗が光っているのが見えた。もう半分以上進んでいたが、ソドウも動かなかった脚をゆっくりと動かし始めた。 苔の生えている岩を背にしてソドウを座らせたハクシャは、自分の荷物から白い布を取り出した。布の中には神木の枝が包まれている。その影に小さな木の葉と花の蕾が見えた。 「傷口を洗った後、エンジュの蕾で止血をするわね」 冷たい水は傷口に沁みる。痛みに顔をしかめながら、ソドウはハクシャの慣れた手つきを見ていた。 「……ずっと、自分の治療は自分でやってきたのか?」 搾り出すようなその声にハクシャは一度手を止めて、ソドウの瞳を見て微笑んだ。 「ええ、そうよ。ここに来る前からずっと、そうしてきたわ。私の家は代々薬師だからこういうのは得意なの。ソドウは大工だったわよね。ニチアイに聞いたわ」 ソドウは自分について話をしようと考えながら、少しずつ己が戻ってくるような感覚に身を任していた。糸を紡ぐようにまっすぐ続く何かが見える。自分が歩いてきた道を確認するようにソドウは答えた。 「ああ、俺の場合は代々というわけではないけれど、師匠はいるよ」 「どんな人?」 「変わった人、だな。いつも『癖は財産だ』と言っていたよ。自分だって一癖も二癖もあるくせに」 不思議そうにハクシャは小さく首を傾げた。 「癖は財産ってどういう意味なの?」 「木の癖というのは、木を組み合わせる方としてはやっかいなものなんだ。妙な角度で曲がっていたり、節があったり。だけど沢山の木の癖を組合すと補いあって、結果的に強くて長持ちする建物が出来る」 ソドウは一気に話した後、疲れたようにしばらく目を閉じた。ハクシャは心配そうに彼を見ていたが、再び開かれた瞳を見ると安心して手元を動かした。 森に奪われていた光がソドウの瞳に戻ってきていた。ハクシャはそれを確認すると、持ち合わせていた薬草を傷口に貼り付けながら、話を促がす。 「もっと話してくれる?」 遠く離れている故郷の島を思っているのだろうか。ソドウは優しい瞳をして、嬉しそうに語る。 「そうだな、こうも言っていた。『癖は木が生きていた森の記憶だから決して捨ててはならん。時間をかければ癖は必ずかけがえのないものになるのだから』」 口調を真似ながら、ソドウは自分に技術を学ぶ機会を与えてくれた人を思い出した。その言葉の通り、師匠はどれだけ癖のある木でも使いこなしていた。今だって、時間も手間もかかるその作業を繰り返しているのだろう。 「筋骨隆々で日焼けして黒くなった顔に髭まで蓄えているくせに、言う事は哲学的なんだよ。それがおかしくておかしくて」 くくくくっと喉の奥で楽しそうに笑うソドウを月明かりが照らした。顔色は悪くない。表情は豊かになっている。もう大丈夫そうだとハクシャは内心ほっとした。 「記憶を捨ててはいけないって、いい言葉だわ。木も人も同じなのね」 ハクシャの言葉に、効率だけを考え癖を捨て、目先の迎合に安心していたサカキでの生活を振り返って、ソドウは息を飲んだ。森の力に惑わされていたとは言え、ラーフジクの記憶さえ捨てて生きていくことに、何の疑問も持たなかった。 月明かりに照らされて、森の中に白い道が浮かび上がる。確かに美しかったが、ここから出たくないと思うほど魅力的ではなかった。木々の合間から、光と闇が混在した場所が見えていた。ここへは何度も来ていたが、今までは見えなかった道だった。 ソドウは寄りかかっていた岩から身体を離した。傷口はまだ傷むけれど、ハクシャの手当てで随分楽になっていた。 「ありがとう、ハクシャ。来てくれて助かった」 「お礼は、きちんと脚が治ってからでいいわよ」 ハクシャは白い布を取り出すと、端を口にくわえて引っ張る。割かれた布が長い紐になっていくのを見ながら、ソドウは素直な気持ちを口にする。 「手当てのことだけじゃない。あのまま、森の外のことを忘れていたらと思うとぞっとするよ」 「大したことはしていないわ」 照れくさそうに笑いながらハクシャは長い紐をソドウの右脚に巻きつける。ソドウは自嘲気味に笑いながらハクシャに話しかける。 「闇に飲み込まれないように警戒はしていたけれど、光も俺を飲み込む力を持っていたなんて、考えもしなかったよ。早く進むより無事に帰ることを優先したほうがいいな。ラーフジクは逃げたりしないのだから」 故郷の島の名がソドウの口から出た瞬間、ハクシャの手が止まった。布を巻き終わったハクシャは、ソドウの脚から波が引くように手を離す。 「ハクシャ?」 「闇を恐れず、光に魅入られない。理想だけれど難しいわね。それでも歩いていくしかないんだわ」 ハクシャは低い声で呟くように言った。先ほどまでの笑顔は完全に姿を消していた。その只ならぬ雰囲気にソドウは聞き返す。 「歩いていくしかない?」 「そう、道がある限りどこまでも」 「だけど、いつかは旅を終えて自分の村に帰るのだろう?」 「この髪がソドウと同じ色なら、迷わずにそうしたでしょうね」 ハクシャはソドウから視線をそらし、白い指で自らの白い髪を痛みを感じるまで絡み取った。心が軋むのを悟られないよう、ハクシャは唇を噛み締める。その絶望的な哀しみにソドウは言葉を失った。 沈黙の中、月は雲に隠れ、闇が再び二人を包んでいった。 「ソドウ、起きて。ソドウ」 緊迫したハクシャの声にソドウは重い瞼を開いた。辺りはずいぶん明るくなっている。いつの間にか眠ってしまったようだ。 上体を起こしたソドウの前に、サカキの案内人が息を切らして立っていた。 ハクシャは木の陰に隠れて案内人と目を合わせようとしない。大陸から逃げてきた時の記憶がそうさせるのだろう。ニチアイのような子供ならまだしも、大陸の大男に恐怖を覚えるのはしかたがないことだと思えた。 事情を知らない案内人はハクシャの態度に一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐにソドウに向き直って手短に用件を述べる。 ただし、その表情からは焦りが手に取るように分かった。 「サカキが倒れそうなんだ。いくら人手があってもどうにもならない」 ここで何を言っても仕方がなかった。取りあえず、サカキへと向かわなくては。 ソドウは怪我をしている右脚を庇いながら立ち上がる。久しぶりの深い眠りに身体は思いのほか軽くなっていた。 だが、傷口が塞がるまでにはまだ日数が必要だ。 「無理をしないで」 ハクシャは昨晩のようにソドウを支えたが、やはり足どりはおぼつかない。いくら整備されているとはいえこのまま山道を行くのは困難だ。 「俺が代わろう」 案内人はそう言うとハクシャに代わってソドウを支えた。 体格差のあるハクシャより、同じ体格の案内人の方が早く進めたが、狭い道ではどうしても足止めされてしまう。 「二人同時には進めないな」 これで何度目の休憩だろうか。案内人の口調からも焦っているのが分かる。 杖になりそうな枝はないだろうか。自分で歩くことが出来れば、今より早く進むことが出来る。先ほどからずっとそう思っていたソドウの目が一点でとまった。 「ハクシャ」 「どうしたの? 傷が痛むの?」 ソドウは小さく微笑むと、ハクシャの足元を指差した。 「痛みはそれほどでもないよ。そこにある枝を渡してくれるかな?」 ハクシャが両手で差し出した枝をソドウも両手で受け取り、支えにして立ち上がった。真っ直ぐではないけれど、強度は十分だ。 「段差があるところは無理だけれど、平らなところはこれで行くよ」 杖は思いの他、役に立った。それからの足取りは軽いとまでは言えないが、今までよりは早く、太陽が一番高い時間にサカキへとたどり着くことができた。 サカキの周辺には村人が集まっていて、いつになくざわめいていた。 「カミオリ様は?」 「ご神木の根元に」 人垣の中を足早に歩く案内人の後にソドウとハクシャが続く。 ハクシャの髪の色が珍しいのか、子供たちの遠慮ない視線が彼女を小さく傷つけていた。何かを振り切ろうとするようにハクシャはサカキを見上げた。 以前見た時と随分様子が違っている。中心は大きく傾き、自身の重さに耐えかねて幹が傷ついている。天を目指していたその姿は変わり果てていた。 ソドウはサカキの根元にいるカミオリの所へ向かう。 「どうしてこんなことに?」 「獣のせいだ。まさか支えを齧られるとは思ってもみなかった」 呆然としているカミオリの視線の先に、古い木を組み合わせた支えがサカキに縄で縛り付けてあった。それは全部で四箇所。 サカキが真っ直ぐ天へ向けて立っていることが出来たのは、支えの力だった。 前に来た時は本当によく見えていなかったのだと、ソドウは痛感した。 カミオリの言うとおり、支えがひとつ、不自然に壊されている。ソドウはその木を手に取った。確かに小動物が巣材にするために持ち去ったのだろうと推測できる痕跡がそこにあった。 支える力が崩れたことで、大きなサカキは根元から傾いたということか。片方だけ大きく伸びた枝が地面へと曲がっている。 根に掌を乗せてじっとしているソドウにハクシャが遠慮がちに声をかける。 「どうしたらいいの?」 これを言っても、カミオリが承諾するはずはない。だけど、言わずにはいられなかった。 「傾いてしまっている方の枝を落とすよ。あとは何もしないで木を信じる」 そうすれば、そのうち木は自分の力で元に戻ろうとするだろう。 支えすぎたことで失われた力は時と共に返ってくる。 ただ、カミオリやこの森に住む人にとってこのサカキは神そのものだ。その枝を切るということは到底考えられないだろう。 そう思ったソドウは一言付け加えることにした。 「俺はカミオリも信じるよ。サカキにとって何が一番いいか、彼には分かっている」 暫く沈黙が流れた後、カミオリが口を開いた。 「最初の支えは一つだった。少しの歪みも許せなくて、どんどん支えは増えていった。私は結局サカキを信じきることが出来なかったのか……」 カミオリの顔は白く、唇は震えていた。 時間はかかりそうだが、この光の森が歪む前の姿に戻る可能性がないわけではなさそうだ。その為の時間なら、ここで費やそうとソドウとハクシャは決めた。 数日後、ようやくサカキの剪定が始まった。 大きな枝をいきなり落とさず、小さな枝を落としながら少しずつ様子を見ていく方針へと決まり、村人は朝から作業に取り掛かっている。 さらに数日経つとその中にカミオリの姿も見えた。村人と同じように汗を流し、話をしながら枝を落としていく。 その姿を見て、ソドウは次の森へ行くことを決心した。 作業の手順をもう一度確認すると、ソドウはカミオリに言った。 「今日、ここを出るよ。お陰で脚も良くなったし」 言葉を選ぼうとしていたカミオリはサカキへ足早に消えた。しかし、すぐに小さな枝を二本手にして戻ってきた。 「この枝を受け取ってくれるか?」 最初の態度が悔やまれるのだろう。少し苦虫をつぶしたような顔をしている。 もう、その表情だけで何も言う事はなかった。 「ありがとう」 「じゃあ、この前貰った木の葉はここへ残していくわ。少しでも力になるように」 そして、村を抜けて森から遠ざかる二人を追う人影があった。金色の髪、案内人だ。 「礼を言っておきたいと思って」 「礼?」 ソドウは首を傾げる。自分が彼の為にしたことなど思いつかなかった。 「思い出したんだ。自分が何をしたかったのか」 「それは良かった。だけど、思い出したのは君の力だと俺は思うよ」 「ソドウ。俺の名前を聞いてくれるかな」 遠慮がちな案内人にソドウは力強く頷いた。その姿に後押しされるように、彼は口を開く。 「俺はカイ。大陸の東にある水路の都リズマから来た技術者だ。俺もあの船に乗っていたんだ」 聞きたいことは沢山ある。どうしてラーフジクに来たのかとか、最初から本当に裏切る気だったのかとか。だけど、今はまだ生々しくて聞くことが出来ない。彼を問い詰めるだけになることは目に見えていた。 「カイ。沢山話したいことはあるんだが、もう行くよ」 ああ、とカイは短く返事をした。歩いていくソドウとハクシャを見送りながら、彼は手を振った。 「俺もまた、旅に出るよ。また会える気がする」 「ああ、それまで元気で」 それは紛れもないソドウの本心だった。間違いを全て消すことは出来ない。これからどう進んでいけるかが問題だ。 もう一度、カイに出会った時。そこからまた何かが始まる予感がしていた。 |
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