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  異界の境界の緑  第八話 木有 (ニワウメ)
 
 薄暗い森にソドウとハクシャは足を踏み入れた。
 かさかさと木の葉が重なり合う音が上から聞こえるが、風は吹いていない。
 何かが潜んでいるような気配がしていたが、動物がいるにしても、あまりに広範囲だ。
「少し気味が悪いな。前もこうだったのか?」
 ソドウは隣にいるハクシャに話かけてみたが、この森に入ってからというもの彼女は表情を硬くして何も喋らない。
「ここは『有と無の祖堂』だったな。何の森なんだ?」
「ニワウメよ」
「ニワウメって確か、ハクシャが『始まりと終わりの祖堂』に戻ってくる原因になった森だよな。どうして、この森を進むことが出来なかったんだ?」
 ハクシャはソドウの問いを聞いていなかったようだ。震える身体を両腕で押さえながら、かろうじて歩いているといった彼女の様子に、言葉の行き先を失ったソドウは空を見上げたが、木々に覆われて何も見えなかった。
 前を進むにも、これでは足が進まない。ソドウは足元にあった太目の枝に布を巻きつけると、植物油を浸み込ませた。出来上がった即席の松明に火を灯す。
 暗闇の中に、光る虫の様に松明が存在を示した。
 すると、突然、木の葉がソドウとハクシャに襲い掛かった。
「ひっ!」
 ハクシャは声にならない悲鳴を上げると、頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまった。
 彼女の肩に乗った木の葉を手にとって、ようやくソドウは納得した。
 木の葉だと思っていたものは無数の蛾だったのだ。
 蛾の動物の目のような模様はなにもかも見透かしているようでありながら、こちらに興味がないようにも見える。
 光に魅入られるかのように松明へ集まってくる。炎で焼かれる翅の最後に蠢く音が、最期まで存在することを示しているかのように聞こえた。
 その様子があまりに無残だったので、ソドウは炎を消した。
 蛾の固まりは一度膨らむように広がり、そのまま散り散りに飛び去った。
 ソドウが足元にいるハクシャを見ると、耳を両手で塞ぎ、瞼を硬く閉じていた。
「もう、火は消したから集まってくることはないよ」
「ええ。もう、大丈夫」
 青白い顔で答えたハクシャは口で言うように大丈夫そうには見えなかった。
「落ち着くまでじっとしていればいい」
「ソドウはあれが怖くないの?」
 うずくまったハクシャはまるで小さな子供のように見える。ソドウはハクシャが安心出来るようにと思い、微笑みながら答える。
「そりゃあ、少しは驚いたが虫は大抵平気なんだ」
「そうではなくて、あの目が」
「目? 模様だろう?」
「じゃあ、本当の目だったら? 大勢の視線は怖くない?」
 大勢の視線?
 ソドウは記憶を探る。
 最近で言うとラーフジクから小舟に乗って大陸の船に着いた時だ。
 先に着いていた村の人間と大陸の人間が待っていた。
 だが、誰もが自分の仕事に必死で一斉にこちらを見たわけではない。
 では、村を出るときだろうか。
 今から新しい時代が来るのだという期待に溢れた視線。
 あれを今は裏切っていることになるのだろうな。
 それに対して罪悪感はある。だが、ハクシャの言うような恐怖は感じなかった。
「恐ろしくはないな。見られるだけなら何の不都合もないだろう?」
「そう。私は怖いわ。視線とざわめきは異質なものを排除しようとする力だから。自分が異質なものだからそう思うのね」
 言い捨てるような言い方はいつものハクシャと何か様子が違っていた。
 ハクシャが怖いというのは蛾ではなく、視線だということが言葉上で理解は出来ても、感覚的にソドウには分からなかった。
「異質って。そりゃ、髪の色は変わってしまったかもしれないが、それだけだろう?」
「変わってしまったのは髪の色だけではないわ。突然、世界が足元から全てが崩れて、一変してしまったのよ。世界は安定などしていない。だから私は世界を信じられない」
 世界とはまた大げさな。
 それとも、ハクシャにとってはそれだけ深い話なのだろうか。
「大陸ではそうだったかもしれないが、ここはセイトーロだ。ましてラーフジクならハクシャを排除しようなんて奴がいるとは考えられないよ」
「悩みながらも、今日と同じ明日が来ると信じることが出来た私に戻れるなら戻りたいわ。だけど一度、優しさを隠れ蓑にした悪意を見てしまったら、誰かの笑顔を信じることが出来ないのよ」
 話が通じない。がたがたと震えながら、周りを拒絶している。
 ソドウにはその姿があまりにも自分勝手に見えた。
 次第にソドウの口調が厳しくなっていく。
「じゃあ、君は笑わないのか? 笑うだろう? 嘘の笑顔を恐れるあまり、自分が嘘の笑顔をしてしまうのか。確かに世界は安定していないかもしれない。だけど、自分まで不安定になる必要がどこにある?」
「そんなの綺麗ごとよ」
 綺麗ごと。分かり合おうとした結果がそんな言葉か。ソドウは愕然とした。
「ハクシャ、俺は君を守ると言った。君はその時、俺の言葉を信じていなかったんだな」
「ええ」
 ハクシャはソドウの目を見ずに小さく答えた。
「じゃあどうして、俺が旅に同行することを許したんだ? 君の旅はこんなものなのか?」
 ハクシャがその問いに答える前に、新たな気配が二人に近づいてきた。
「とうとう戻ってきたね。ハクシャ」
 そこに少年が立っていた。少年と青年の間に位置するような彼の成長段階の腕はまだ細く、声も高い。不揃いの髪は癖があるのか、くるくると毛先が巻いていた。
 ハクシャはぼんやりとした目で少年を見ている。
「アリツキ」
「消えたいんだろ? 今度こそ一緒に死んでよ。ハクシャ」
 その言葉に誘導されるようにハクシャは自分の首を押さえた。手を交差させて両手の親指を中心に置き、確実に息を止めようとする。
 何度も試みたことがあるのだろう。躊躇する様子が見受けられない。
 さらにぐっと力が入ると、ハクシャの首は後ろへと仰け反った。
「何をしているんだ! 早く離せ!」
 ソドウは慌てて指を外そうとするが、指の力は強く、どれだけ外そうとしても完全には外れない。
 この森に入るまでは何も問題はなかったのだ。少なくとも表面上は。
 とにかく、この森を出よう。
 ソドウはハクシャを両腕でしっかりと抱きかかえると、アリツキの阻止を振り切って、闇雲に走った。
 走る彼を避けるように蛾が飛んでいった。
 こんな意志のない視線ですら、ハクシャを苦しめている。
 ソドウには全く理解が出来なかった。
 
 
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