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  異界の境界の緑  第九話 木無 (ブナ)
 
 冷たい雨がソドウの額を伝って落ちてきた。いつから降っていたのか思い出そうとしたが、全く思い出せない。雨で体温を奪われたのか、身体が小刻みに戦慄く。ソドウは息を切らしながら、ハクシャを比較的濡れていない地面へ下ろした。
 息を整えていると、背後から濡れた木の葉が潰れる音がした。振り返ったソドウは自分の目を疑った。そこには、あれほど距離を開けたはずのアリツキの姿があった。突然すぎて、ソドウは狼狽した。彼はいつから追いついていたのだろうか。
 ソドウの様子に構うことなく、彼はハクシャを見て諦めたように小さく呟いた。
「あれほど二度と来るなと行ったのに。またニワウメに行ったのか」
 その言葉にソドウは違和感を持った。確かに顔は同じだが、雰囲気が全く違っているのだ。話し方も先ほど会った少年より随分大人びて見える。
 辺りを見回すと、異変はそれだけでないことが分かった。蛾の羽音が聞こえない。それどころか自分達の他に動くものを確認できない。一見したところ同じ森でも肌に感じるものは全く違っていた。
「ここはニワウメの森じゃないのか?」
 ソドウの問いに彼は短く答えた。
「ここはブナの森。俺はナシヅキ」
 これは安心していいのだろうか。ソドウは頭を動かさず目線だけでハクシャを抱えて逃げることが可能な道を探し当てた後、頭に浮かんだ質問を口にした。
「俺はソドウ。ナシヅキはハクシャに会ったことがあるのか?」
「ああ。以前来た時に俺がアリツキに追われていたハクシャを逃がしたんだ」
 蜘蛛に捕まった蝶を逃がしたような言い振りだとソドウは思った。先ほどのアリツキにしても、このナシヅキにしても言葉の割にどこか現実味のないところにいる。これは遠まわしに話しても仕方がないと判断し、ソドウは率直に聞くことにした。
「アリツキはどうして、死を望むんだ?」
「俺達は比較されることに疲れていたんだ。同じ顔で同じ声をしているから、どうしても比較は避けられない。それで、お互いを避けるようになってから、二つの森が変化し始めた。ニワウメの森は視線に覆われ、ブナの森からは気配が消えた」
 その追い詰められた様子にソドウは宥めるような言葉しか思いつかなかった。
「人は全く違うものを比べることはしないよ。同時に全く同じものも比べない。君達は何処か似ているんだ」
 ソドウのその言葉にナシヅキは頭上を見上げた。そこに飛んでいるはずの鳥の姿は確認出来ない。足元にある木の葉もこの時期にしては積もりすぎだった。まるで木以外のものは生きることが出来ない世界のようだ。
「似ている……。そうかもしれない、二人とも同じものを欲しがっているのかもしれない。だけど今、彼が無になりたがるのは俺のせいだ。この静かな世界が欲しいんだ」
 ナシヅキは静寂な世界の中で哀しそうに瞼を伏せ、静かな森に相応しい静かな声を出す。
「頼みたいことがあるんだ」
「俺に出来ることなら」
 関わらずにこの森を出ることはないだろうとソドウは覚悟していた。だが、ナシヅキの口から発せられた言葉は思いもかけないものだった。
「俺を殺してくれ」
「断る。お前達はどうしてそんなに死にたがるんだ。俺には全く分からない」
 当然のように即答したソドウの腕にナシヅキは縋るようにしがみ付いた。
「俺が居なくならなければ、アリツキは救われない。アリツキが救われなければ、俺も囚われたままだ。それに、この森の恐ろしさはこれからなんだ」
 その言葉の真意を聞こうとしたソドウの目の前から、突然、色が無くなった。明るいところから急に暗いところに入った時のような、暗闇に目が慣れていない感覚に似ていた。足元が不安定になり、ソドウは支えを探して闇雲に手を動かす。一本の木を掴んだがそれは枯れていたようで、一緒に地面へと倒れ込んだ。
「まず、目が見えなくなる。次第に匂いも味も音も分からなくなる。最後に身体が動かなくなって終わりだ。全ての原因である俺が居なくならないかぎり、この森は正常にはならない」
 頭上から聞こえるナシヅキの声は内にあるものを吐き捨てるようだった。
 雨はまだ冷たく続いている。ソドウはゆっくりと瞬きをしながら考えをめぐらすが、明確な答えは浮かんでこなかった。一人を殺し、三人が救われる。だが、それは本当の救いだろうか。
 大体引き受けたとして、木を生かすために刃物を使ってきた自分が、人を殺すために刃物を使えるのだろうか。ニワウメの森で聞いた蛾の羽音が頭の中で響く。考えは全くまとまらない。
 
 
 考えている間に少し視界が明るくなった。ブナの森の作用が弱まったわけではなく、いつの間にか雨が止んでいたようだ。足元の枯れ木を手にしながら、ソドウはナシヅキに聞いた。
「この木はもともとこの場所にあったのか?」
 触った感覚でいくと、まだ若い木だ。何か大きな変化がない限り、枯れるとは考えられなかった。
 ナシヅキは突然何を言い出すのかと思ったが、ソドウの問いに答えることにした。
「それはこの間の大雨で崖が崩れたので、ここに植え替えたんだが、どうも上手くいかない」
「土が合わなかったんだな。あまりにも環境が変わると、木は自らの命を絶つ。動けないから、それしか方法がないんだ。だが、俺達は自分で動くことが出来る。命を絶つのを急ぐことはないんじゃないか?」
 ナシヅキはぼんやりとソドウの手にある枯れ木を眺めた。なれるものならなりたいと思った姿がそこにはあった。
「逆にアリツキと俺は自殺をすることが出来ない。森の力が守ろうとするから。だからアリツキは誰かを巻き込み、その仇を討ちに来る奴を待っているんだ。それを俺は終わらせたい。ソドウは終わらせてくれないのか?」
「俺にはハクシャの問題と君達の問題が同じには見えないんだが」
 それぞれが、他人の視線を恐れているという点では同じだろう。しかし、ハクシャはいつ傷つけられるかと、起こらないかもしれない災厄を恐れている。絡まりあった幾つかの問題を解きほぐす時間が必要だとソドウは感じていた。しかし、ナシヅキは首を大きく横に振る。
「厳密には違うかもしれない。だが、紛れもなく同じ方向を目指している。動き出したものは止められない。考えている時間はもうないんだ」
 ナシヅキは自分が居なくなることで他の人間を救おうとしている。確かに作物に間引きは必要だが、人にそれを当てはめるということにはどうしても嫌悪感が付きまとう。再度、断ろうとしたソドウにナシヅキは声をかけた。
「ソドウ、まだ動けるか?」
「ああ、うっすらとだが輪郭は分かるよ」
「俺が支えるから、少し歩いて欲しい。見せたいものがあるんだ」
 木々の合間から見えてきたのは小さな平地だった。その異様さは色が無くても十分理解できた。草の生えていない大地には木の板が刺さっており、何度も掘り起こされているのか地面は柔らかかった。
「これは?」
「墓だよ。アリツキが奪った命。それより多い俺が奪った命。墓をたてるぐらいしか俺が出来ることはなかったから」
「ナシヅキは自分の手をかけた訳ではないだろう?」
 そう言いながらソドウにも分かっていた。そんなことは何の救いにもならない。均衡をなくした森がしたことでも確実にナシヅキの心を締め付けている。木々と自分の他に何も生きることが出来ない世界で、この少年は墓守をしてきたのか。ナシヅキにかける言葉がソドウには思い浮かばなかった。彼が欲しい言葉はただ一つなのだ。
 ナシヅキは泣きそうな声でソドウに訴えかける。
「もう一度頼むよ、ソドウ。俺を殺してくれ。強い意志を持った人間しかアリツキから逃げることは出来ない。そんな人間が次に現れるまで俺達は一体何人の命を奪うんだ? もう、終わりにしたいんだよ」
 ソドウは目をつぶり、しばらく無言で考えをめぐらした。木の葉のざわめきは答えを示してはくれない。答えはもう記されているのかもしれない。目を開けたソドウは意を決したように喉の奥から低い声を絞り出す。
「引き受けよう」
 その言葉にナシヅキは何かから開放されたような笑顔を浮かべると、腰紐に挟み込んでいた刀を手に取った。自分を守るだけにしては大きく、戦いに赴くにしては小さすぎる。だが、その手入れの行き届いた刃は暗い視界の中でも確認できるほど不気味な光を発していた。
「これを使ってくれ。この日の為に用意していた物だ」
 ソドウは両手で刀を受け取り、右手で構えた。刀の重さなのか、命の重さなのか右手が震える。左手で押さえ込もうとするが簡単にはいかなかった。
 風の音が心をかき乱そうとする。ソドウは眉間に深い皺を寄せながら、意を決して刀を振り上げた。
「ありがとう、ソドウ」
 刀にうつる己の姿を確認すると、ナシヅキは空を見上げそのまま静かに目を閉じた。
 
 
 日が落ちる頃、ブナの森に足を踏み入れたアリツキは今までにない違和感を自分の中から感じていた。何か漠然とした喪失感が内側から込み上げてくる。それが何なのかアリツキには分からなかった。
 ニワウメの森から逃げてブナの森へ入った人物。きっと彼なら自分の望みをかなえてくれるに違いない。先にハクシャを探そうとするが、全く見つけることが出来ない。諦めかけた頃、ようやく遠くに探し求めた人物の姿を見つけることが出来た。駆け寄ろうとして、アリツキは泥濘に足を取られた。
 どす黒い泥濘。何処となく生臭い。アリツキは周りを見渡し息を飲んだ。
 それはおびただしい血の跡だった。
 
 
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