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異界の境界の緑 第十話 木票 (シルベ) |
アリツキはただ闇雲に走っている自分に気づいていた。それでも、何かに追われているかのように、前を向いてひたすら走るしかなかった。漠然とした不安が身体中を支配する。手は冷たいのに汗をかいていたし、奥歯を噛み締めようとしても力が入らずカタカタと音が鳴るだけだった。 ブナの森に入った時はいつも異質な物を拒絶する気配を感じたのに、今は全く感じない。ただ、冷たい空気が身体に纏わりついて鳥肌が立っている。思い出すだけでぞっとする。地面にあったのは血痕だけではなかった。赤黒く染まった刀。同じ色に染まっていく考えを振り払うように彼はひたすら走っていく。 木々に閉ざされていた視界がいきなり開けた。数え切れない墓標の中に立っている大男の姿を確認すると、アリツキはようやく足を止めた。 「ナシヅキは何処だ?」 アリツキは自分の声の力のなさに驚き、両手を強く握り締めた。 「何故それを聞く? もう、気づいているだろう」 アリツキは振り返った大男がハクシャと一緒にいた者で、彼の足元の地面に人の手が入っていることに気づいた。 盛り上がった土。まだ柔らかく、だからこそ生々しい。その意味を瞬時に理解してアリツキは地面に膝をついた。手の震えが止まらなかった。しばらく黙っていた大男、ソドウは立って前を向いたまま静かな口調で告げる。 「ナシヅキの墓だよ」 「嘘だ!」 地面に両の手を押し当てる。こんなのはナシヅキではないと何度もアリツキは呟いた。だが、先ほど見た血痕と森の気配は事実だった。 「では、俺達が普通に歩くことが出来るのは何故だ? 森に拒絶されない理由は?」 「何でこんな事を」 冷静なソドウにアリツキは怒りをあらわにした。アリツキはソドウに掴みかかるが、二人の体格差は明らかで、ソドウは少しも動かなかった。 「森の力が俺を殺そうとした。だけど、俺は死にたくない。まだやることが沢山あるんだ」 ソドウはそう言って目を伏せた。墓標に飾ってあるのは白い花輪。アリツキにも分かっていた。森の暴走を止めるには、どちらか片方が消えるしかない。だから、自分が消えようと思ったのだから。 「ナシヅキ、ナシヅキ」 どれだけ名を呼んでも答えてくれる相手はもういない。目の前の墓標は借り物の身体にしか思えず、どうしても実感を伴わない。アリツキは地面に覆いかぶさるようにして、ナシヅキの名を呼び続けた。最初は流れる涙を拭っていたが、次第にそれすら意味のないことのように思えた。意識がぼんやりとする。 ソドウはそんなアリツキの傍にただ立っていることしか出来なかった。言葉は何の意味もなさない。そこに言葉は無くても、この森の均衡が崩れてから初めて彼らは語り合おうとしているのだから。強く吹き付ける風が二人の身体から熱を奪っていく。それでも二人はそこに居続けた。 泣きつかれたアリツキはいつの間にか眠りについてしまっていた。目を覚ました時、彼は洞窟の中にいた。外では雨が大きな音をたてて降っている。風の音が洞窟に反響して聞こえる。小さく大きく寄せては返す波のようだ。だが、それは洞窟の中から聞こえていた。アリツキは曖昧な思考のまま、重い身体を持ち上げた。 暗い洞窟の中にひとつの灯りが見える。小さな焚き火だ。その橙色の炎は暖かく周辺の空気を包んでいた。ハクシャの白い髪が暗闇にぼんやりと浮かぶ。アリツキは岩に持たれかかりながら少しずつ彼女へ近づいていった。声は彼女の座っているところから聞こえていた。近づくにつれて、はっきりと聞こえてくる。それはうわごとのようだった。 「痛い、熱い」 その声は、アリツキが二度と聞くことが出来ないと思った声だった。 「ナシヅキ!」 彼は白い顔に大粒の汗をかいている。アリツキはナシヅキの両肩を持つと、ありったけの力で上下に揺すった。 「こら、怪我人を動かすと傷が開くでしょう」 強い力で引き離されたアリツキは後ろへ転がった。しばらく呆然とハクシャの動きを見ていたアリツキだったが、今度は大人しくハクシャの隣に座ることにした。ナシヅキの左脚に白い布が硬く巻かれていて、所々赤く血が滲んでいた。ナシヅキはうっすらと目を開けていたが、痛みの為か周りの状況を飲み込めていないようだった。 「痛いよ」 苦しそうな息の合間に発されるのはその言葉だけだ。アリツキはどうしたらいいのか分からず、縋るようにハクシャを見た。 「不自然な死が痛みを伴うのは当然の事よ。死に魅入られている時は気づかないけれどね」 ハクシャは自分に言い聞かせるように言うと、下唇を噛み締める。言葉の厳しさとは裏腹に優しくナシヅキの汗を拭いていて、必死に助けようとしていることが分かった。ナシヅキの左脚は右脚の二倍近くに腫れ上がっていた。アリツキはハクシャの隣に座ると両手でナシヅキの右手を握った。しばらくすると安心したのかナシヅキは小さな寝息を立て始めた。アリツキはぼんやりとナシヅキを見ていた。強靭で冷静だと思っていた彼がとても小さく見える。そこに大きな影が被さった。 「ありがとう、ソドウ」 振り返ったハクシャがソドウから水を受け取る。アリツキはナシヅキから目を離さずに、ソドウへ話しかけた。 「俺、あんたに聞きたいことが沢山あるんだけど」 「ハクシャ、ここで話しても大丈夫かな?」 ハクシャは冷たい水に布を浸しながら、小さく頷く。 「大きな声を出さなければ」 その答えを聞くと、ソドウはアリツキの言葉を促がした。 「ナシヅキに何をしたんだ?」 「見てのとおりだよ。自分が助かる為に殺そうとした。だけど失敗した。傷を負ったナシヅキは意識を失い、俺とハクシャは森の拒絶反応から救われた」 「どうして、失敗したんだ?」 一度向けた殺意は簡単なことでは消えない。そう思っていたのは間違いだったのだろうか。それとも、もっと重要なことがあれば殺意を消すことが出来るのだろうか。アリツキはそれを聞いてみたいと思った。 「言葉や気持ちにも刃があるけれど、一番鋭いものは自分へ向かう。ナシヅキの刀を見たときそう思ったよ。気が付いたら刀は大きくそれていた」 「一度向けた刃を下げてもいいのかな?」 「必要がなければ、いつでも下げていいと俺は思うよ。アリツキはどうしたいんだ?」 アリツキは枯れたと思っていた涙が溢れ出るのを止めることが出来なかった。顔をくしゃくしゃにしながら声を絞り出すように言う。 「俺はナシヅキに死んで欲しくないよ」 「ナシヅキもアリツキに死んで欲しくないと思っているよ」 「でも、それで、森はもとに戻るだろうか?」 「一度姿を変えた森を同じ姿に戻すのは無理だろう。外見は同じようでいて全く違うんだ。だけど、新しい森へと変えていくことは出来る」 「ナシヅキと二人で?」 「そう、二人で。もう、きちんと話し合うことが出来るだろう?」 どちらも消えなくていい。それはアリツキが考えたこともない答えだった。 「均衡を取り戻すには、どちらかが消えるしかないと思ってた」 「それは誰の為に?」 「この森と俺達の為に」 「ほら、ナシヅキも必要だろう?」 ソドウはアリツキの髪の毛をくしゃくしゃと撫でる。アリツキは涙を流しながら、ソドウへ笑いかけた。雨は強く振り続いていて、まだ止みそうにない。それでも数日後には止むだろう。その時は綺麗な晴れ間が見えなくても、いつか必ず見える日が来る。 数日後、晴天とはいかないまでも、雨は止んでいた。コォーンコォーンという音が森に響いている。ハクシャが洞窟を出ると、少し広くなったところでソドウが何かの部品を作っていた。彼はハクシャに気づくと声をかけてきた。 「もう大丈夫なのか?」 「ええ、熱も下がったし、今はアリツキが傍に居るから」 「ナシヅキのこともだけど、ハクシャは?」 ニワウメの森で気を失ったハクシャが、ブナの森で目を覚ましたとき、大きな傷を負ったナシヅキがソドウに抱えられていた。 「あれは驚いたわ。とにかく早く何とかしてあげたいとしか、頭に浮かんでこなかったもの。気づいたら、死にたがっていた私がナシヅキの苦しみを取り除こうとしていたわ。滑稽ね」 肩をすくめて笑うハクシャを見て、ソドウは手を止めた。 「随分、落ち着いたようで安心したよ」 「ありがとう。でも、また同じところで悩むかもしれないわね」 恐れている視線が消えたわけではない。全てを信じられるような大きな事件が起きたわけでもない。自分がまだ進んでいけることが分かっただけだった。 「同じ人間なのだから、それは当たり前だろう? だけど今回乗り越えられたなら、次もきっと乗り越えられるよ」 再びソドウの手が動き出す。ハクシャはソドウの横にしゃがみこむと、手元を見た。やはり、何を作っているのか想像がつかない。 「それは?」 「ああ、ナシヅキが歩けるようになったら、何か支えが要ると思って。杖を作っているんだ」 体重をかけてもいいように持ち手の部分を細い板で補強してある。完成は間近のようだ。 「ソドウは何でも出来るのね」 感心して言ったつもりの言葉に皮肉めいた音を感じ、ハクシャは息を飲んだ。必死で看病をしている間は元の自分に戻れたと思っていたが、まだ、自分の心は変形したままなのだと深く沈んでしまう。しかし、ソドウはハクシャの様子に気づいていないのか、普段どおり会話を進める。 「何でも出来るなら、ナシヅキに怪我をさせずに済んだだろうな。それに、もっと早く旅が進んでいるだろう」 ハクシャは何か答えようと思ったが、言葉が見つからず、他の問いかけをしてみることにした。 「いつから今回の事を考えていたの?」 「考える時間などなかったよ。ただ、いつものようにしただけだ」 「いつも?」 ソドウは足元に転がっていた板を二枚取ると、両手に一枚ずつ持った。 「ラーフジクはセイトーロに比べると森が少ないだろう? だから、舟を作るにもこういった板を何枚か繋ぎ合わせて使う。この二枚の板を一枚の板にするには、どうしたらいいと思う?」 ハクシャの村は山の奥にあるので、舟を作るところなど見た事はなかった。彼女はしばらく考えた後、自信なさそうに答えた。 「接合部分に穴を開けて木ねじを使う、というのはどうかしら?」 ソドウはハクシャに微笑んだが、答えはどうやら違うようだ。 「普段はそれでいいけれど、舟を作るには駄目だ。水が入ってしまうだろう? どれだけ合わせたつもりでも、木は生きているから時間が経てば曲がったり縮んだりする。それで、マキハダを使うんだ」 ソドウが取り出したのは茶色の塊だった。彼は柔らかそうなそれを、細く長く伸ばす。 「これはヒノキの内皮からとったもので、木と木の間に詰めれば水を吸って膨らむ。荒波を越えるには強度が必要だから間が少ないほうがいい」 ソドウは板を接合部分を上にして置くと、金槌で中程を叩き始めた。縁はそのまま残し、力加減をしながら丁寧に叩いていく。二枚とも同じ作業を行い、ソドウは両手に板を持ち、ゆっくりと合わせた。左右の板は面ではなく線で繋がっているせいか、どこか安定を欠いている。 「この隙間にマキハダを詰める。時間が経つと木は元に戻ろうとするから間は埋まっていく。水も入らない強い一枚の板になるんだ。これを『木殺し』というんだ」 「物騒な名前ね」 「ああ。でも、人殺しより物騒ではないだろう?」 「それも、そうね」 意識しているようで全く実感していなかった相手の死を見せると同時に、二人の溝を埋める。今回それが成功したのはアリツキとナシヅキを見れば分かる。ソドウはいつもこんなことを考えているのか。ハクシャは唖然とすると同時に可笑しくなって笑ってしまった。 「本当に面白い人ね」 くすくすと笑うハクシャにソドウは微笑んだ。 数日前は気配のなかった森が暖かな空気を帯びていた。この森に暖かい光が溢れるのも時間の問題だ。 「そうだ。見せたいものがあるんだ」 遥か遠くに輪郭が曖昧な島が見える。今までの森では外の様子は全く見えなかったが、ここは空も海も近い。それを実感できる光景だった。 「あれは……」 「ラーフジクだよ。ここは高台だからよく見える。あの方向に戻って行けばいいんだよな」 「ええ。あそこへ戻ればいいんだわ」 ただ、前に進むことしか考えていなかったハクシャの目の前に道標が見えていた。ハクシャは心の底からラーフジクに帰りたいと思った。それは白い髪になってから初めてのことだった。 |
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