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異界の境界の緑 第十一話 木風 (カエデ) |
最初に異変に気づいたのはアリツキだった。彼はさっきまで穏やかだった水面に揺れる深紅の葉を見つめた。顔は青ざめて、握り締めた手は冷たい汗をかいていた。 はっきりと悪意を感じる葉を、彼は急いで水底へ埋めようと足下にあった棒でかき混ぜた。跪いたアリツキが揺れながら沈んでいく葉を見て一息ついたその瞬間、水面に映ったのは空から降ってくる無数の深紅の葉の姿だった。 同じ頃、洞窟でハクシャの手当てを受けていたナシヅキは身体を強張らせた。異質なものが降りてくる気配を感じて目の前のハクシャを見るが、全く気づいた様子はない。ナシヅキは手当ての礼を言うと杖を手にしてゆっくりと洞窟の外へ出た。陽はまだ高い筈なのに、空は深紅の葉で染められていて、彼は思わず杖を地面に落としてしまった。 震える手で杖を取ると、ナシヅキは動かない足を必死に動かしながら、アリツキの元へと急いだ。だが、急ぐあまり木の根に当たり大きく上体が崩れる。 「ナシヅキ!」 前から来たアリツキが地面とナシヅキの間に入り込む。同じような体格のナシヅキを完全に支えることは出来なかったが、地面にぶつかるのだけは避けられたようだ。 「大丈夫?」 「うん。ありがとう」 アリツキの手を借りて起き上がったナシヅキは、岩に持たれかかると空を見上げた。舞う葉のせいで、既に本来の色は分からなくなってしまっていた。 「これ、カエデだよな。この森のせいなんだろうか」 森の中まで不吉な風が吹き込んできた。アリツキは両手を自分の身体の前で握りしめて、必死に訴えかける。 「絶対に違う。ソドウに教えてもらって、ニワウメの森もずいぶん良くなったんだよ」 「うん、聞いている。足が良くなったらちゃんと見に行くよ」 にこりと笑うナシヅキを見て、アリツキは少し表情を和らげた。だが、二人の不安がなくなった訳ではない。 「でも、次の祖堂からの招待状にしては不気味すぎるね」 アリツキは自分の肩に降りかかる葉を払いながら言った。ナシヅキは落ちていくカエデの葉を見ながら、ひとつ思い出した。 「いや、むしろ当たり前じゃないか。ほら、イナシロのこと覚えているか?」 森が荒れてからは訪れる人影が随分減ってしまっていた。アリツキは記憶を探るように頭を傾けて答える。 「いつだったかな。森の中は時間が経つのがゆっくりだから覚えてないや。けど、イナシロのことは覚えているよ。ここを通ってザクロの森に留まった白い髪の」 それだけ言うと、アリツキははっとした表情のまま固まった。ナシヅキを見ると白い顔をしている。アリツキは震える手でナシヅキの腕を掴んだ。 「どうしよう、ナシヅキ。このままだとあの二人、自分たちの島に帰るどころの話じゃない」 「落ち着いて、アリツキ。俺たちが出来ることを考えよう」 ハクシャは戸惑っていた。数日前までは歩く練習を欠かさなかったナシヅキが、全く洞窟から出ようとしない。このままでは日光に当たることすらなく、身体の不調が現れるのも時間の問題だった。 ソドウも困惑していた。アリツキが指示どおりに苗木を植え付けない。これでは森の再生どころの話ではない。土壌は出来上がっているのに、アリツキはカエデの葉を集めては燃やすことに一日の大半を費やしていた。確かにカエデの葉は邪魔かもしれないが、それだけ神経を尖らせる必要があるとはソドウには思えなかった。 「いきなり、どうしたんだろうか」 「二人ともおかしいわよね」 森の雰囲気は以前のように劣悪ではない。ニワウメの蛾も減ってきていた。けれど、得体の知れない違和感にハクシャはため息をついた。ソドウは空を見上げると、舞い降りてくる赤い葉を一枚手に取った。 「おかしいと言えば、この葉もおかしいな。葉が落ちるには時期的に早いし、ここにカエデの大木はない」 「カエデ? これがカエデの葉なの?」 赤い葉をくるくると回すソドウの手を見ながらハクシャは聞いた。 「ああ。そういえばラーフジクでは珍しいな」 「そう。これがカエデ」 ハクシャは指を唇に当てて呟くように繰り返すと、ソドウの正面に立った。 「ソドウ。アリツキとナシヅキのことは任して貰えるかしら?」 「何か思いついたのか?」 「ええ。確証はないけれど、思い当たる節があるわ」 その日の夜。ハクシャは小さな炎の横で丸くなっているナシヅキの横に座って話し始めた。 「ナシヅキ。私は明日、次の祖堂に向かうことにしたわ」 「駄目だ!」 ナシヅキは勢い良くハクシャにしがみついた。まるで、全身全霊を込めて引き止めようとするかのように。ハクシャはナシヅキの背中をなだめるように擦りながら、優しい声で問う。 「危険だから?」 ナシヅキはハクシャの目を見た。もしかしたら、本当のことを言えば旅をやめてくれるかもしれないと思い、ナシヅキは小さく頷いた。 「隠していたのは悪かったと思う。でも次は今までのように引き返す事が出来ない。だから、行って欲しくないんだ」 「ありがとう。それで、歩く練習をしなかったのね。だけど、私のせいでナシヅキが歩けなくなるのは嫌だわ」 ふわりと笑うハクシャの顔をナシヅキはぼんやりと見てしまう。 「明日出発と言うのはちょっと嘘ね。ナシヅキがもっと楽に歩けるようになってから、私は次の祖堂へ向かうわ。カエデの森のことは翁から聞いていたのだけど、私、カエデの葉を見たことがなかったから分からなかったの。心配かけてごめんなさいね」 ナシヅキは暫く考えて、もう一度確かめるようにハクシャをじっと見た。 「イナシロのことも知っているんだね」 その言葉にハクシャは静かに頷いた。炎に照らされた頬が赤く染まる。 「イナシロの子供たちにヒイラギとトリネコで会ったわ。翁は『カエデに行ったらそこから出る事は出来ないかもしれない』と言っていた。だから、次へは私一人で行くわ」 ハクシャの後ろの岩陰に動く気配を感じて、ナシヅキは次の言葉を決めた。さっきのハクシャと同じように優しい声で問う。 「危険だから?」 「ええ。これ以上ソドウを巻き込む訳にはいかないもの」 「ありがとう。だが、俺は君と帰ることが出来なくなるのは嫌なんだ」 急に自分の後ろで声がしたので、ハクシャは慌てて振り返った。そこにはソドウが腕組をして立っていた。ハクシャはふっとソドウから目線をそらせると早い口調で一気に話した。 「これは、私の問題よ。もうこれ以上貴方を巻き込むわけにはいかないの」 今まで黙っていたアリツキも炎の傍へとやってきた。ハクシャはソドウに自分の知る限りの情報を語ることにした。それ以外に説得する方法が見つからなかったからだ。 「この葉を飛ばしているのはホノイロ。彼女は祖堂を飛び出したイナシロの代わりを探しているらしいわ」 「それでどうして危険なんだ? 代わりなら安全は保障されているように思えるが」 そのソドウの問いにナシヅキが答える。 「白い髪の人間はこれまで何人も通ってきた。けれど、あの森から出た者はいない」 「イナシロが白い髪だったから。きっとホノイロはまだイナシロを許していないんだ」 ナシヅキとアリツキは、どうにかしてハクシャとソドウを止めようと必死に訴えかける。 「祖堂は確かに大切だけど、次は絶対に危険だ」 その気持ちは有難かったが、ハクシャにはもう覚悟は出来ていた。ここで留まるのも次の森で留まるのもやりかけた仕事を放り出す結果になるのだから、何も変わらない。彼女はそれを拒絶でも妥協でもなく、二人に伝えようと言葉を探した。 「でもね、私は行きたいの。ちゃんと終わらせて帰るって決めたから」 次にハクシャはソドウへ向かって語りかける。今度は口調に余裕はない。 「ホノイロと話したら、ここに戻ってくるわ。だからソドウにはここで待っていて欲しい」 ソドウは静かに首を横に振った。ハクシャの言いたい事は分かるが、それでも譲れないことがあった。 「ハクシャは自分の旅に付き合わせていると思っているようだけど、俺は自分の旅をしているよ。例え次の祖堂から出られなくても後悔はしない。でもここで、ハクシャだけ行かせたら絶対後悔する。だからこれは俺の問題なんだよ」 道はすでに決まっていた。これ以上、話し合ったところで何も変わらない。アリツキとナシヅキは二人が旅立つことを、ハクシャはソドウが同行することを、渋々受け入れるしかなかった。 数日後、ゆっくりとだが着実に歩けるようになったナシヅキが、ブナの枝をハクシャとソドウに手渡した。 「次は『静と動の祖堂』だよ。イナシロがいなくなった今、ホノイロはカエデとザクロ、二つの森を管理している。何が起こるかは全く予想がつかない。決して気を抜かないで」 アリツキはニワウメの枝を渡しながら、ハクシャに頭を下げた。 「ごめん、ハクシャ。今回のこと、ちゃんと謝っておこうと思って」 「もういいわ。それに、ニワウメから先に進めなくて、戻ったお陰でソドウと会えたのよ。あのまま進んでいたら、私はイナシロの代わりになることしか考えられなかったわ。だから、ありがとう。アリツキ」 泣きそうになるアリツキをナシヅキが支える。もう、この祖堂は大丈夫そうだとソドウは安心した。もしも均衡が崩れることがあっても、二人で問題を解決することが出来るだろう。 ブナの森から一歩ずつ踏み出すハクシャは、最後にもう一度だけラーフジクを見た。自分が帰る場所は確かにある。だから迷っても立ち止まっても、再び歩いていける。 ソドウはハクシャの隣で散らばっていた考えがまとまっていくのを感じていた。だが、今は形にする時ではない。ナシヅキに確認したところ、祖堂はあとふたつ。形にするのはそれからでいい。 二人は新たな決心の下、前へ歩き出した。深紅の葉が誘う、迷いの森へと。 |
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