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  異界の境界の緑  第十二話 木留 (ザクロ)
 
 深紅の葉に彩られた不気味な風が止まった。
 嵐の後のような、潮や粘土の匂いと獣や人の気配の入り混じった心地よいとは言えない風が止まったにも関わらず、ソドウとハクシャは警戒を緩めずに寄り添いながら先に進んだ。
 静けさが逆に恐怖を煽っていた。耳にする音は枯葉を踏む音だけ。それすらも沈黙に飲み込まれていく。
「カエデはもう通り過ぎたのかしら?」
 ハクシャは不安そうに後ろを振り返った。ソドウも肩をすくめながら答える。
「普通の森はこんなものだが、祖堂で曖昧な境目を見ると気味が悪いな」
 しなやかな枝は二人を嘲り笑うように右へ左へと揺れている。暫く眺めていた二人は、何も様子が変わらないのを確認すると、再び先を目指した。
 単調な道が長い間続いていた。時間の流れすら止まったような空間に、耐え切れない様子でハクシャが呟く。
「真綿で首を絞められているようだわ」
「道が楽だからな。体力的に余裕がある分、余計なことを考えてしまう。早くホノイロに会えるといいんだがな」
 ソドウは苦笑いをした後、荷物を降ろして座り込んだ。
「少し、休憩しないか。聞きたいこともあるし」
 ハクシャはちらりと先を見たが、ソドウの言葉に頷くと隣に座った。
 生い茂った木々は外からの光を遮っている。薄暗い森でハクシャは自分の膝を抱えた。
「聞きたいことって何かしら?」
「この旅は随分危険なものだけれど、どうして始めようと思ったんだ?」
 ハクシャは長い髪をひとつまみすると、わずかな光に当てるように指を離した。さらさらと音を立てて白い髪が元へ戻ろうとする。
「この髪が白いからよ。白い髪の者を失ってから、祖堂の繋がりはこのカエデとザクロの森で途切れてしまった。巡礼の旅が再び行われるように、祖堂を繋げるのが白い髪の者の役目」
 ハクシャはまるで宿命のように言ったが、ソドウは納得出来なかった。
「ハクシャの髪の色が白いのは船が遭難したせいだろう。ただの偶然じゃないか。そもそもイナシロはどこに行ったんだ? 彼女さえ戻ればハクシャが巻き込まれることもないだろうに」
 ハクシャは木々に分断された空を見上げた。点のような青い空がそこにある。
「翁は子供たちの前では言わなかったでしょうね。モクノイを産んだ後、病気で亡くなったそうよ。二人の父親は自分の故郷に薬を取りに行ったまま帰ってこなかった。私が知っているのはそのくらいね」
 ソドウはハクシャと同じように空を見上げたが、影が全てを飲み込もうとしているようにしか見えなかった。
「ハクシャは会ったこともない人間の代わりをしようとしている。俺には自分と全く無関係な問題に命をかける理由が分らない」
「理由なんて要らないわ。巻き込まれた訳でもない。私にはこの道しかなかったのよ」
 ハクシャは空を眺めるのを止めるとソドウへ微笑んだ。そこには選択肢がなかったという言葉より、哀しい潔さがあってソドウは言葉を失った。
 
 
 一日が終わりかける頃、遠くから小さな水音が聞こえてきた。音は次第に大きくなり二人の目の前に大きな川が現れた。
「泳いで渡るのは無理だな。水の流れが速すぎる」
 足場を探していたソドウがカズラの吊り橋を見つけた。しかし、それは人為的に取り外されていた。切り裂かれたカズラを手に取りながら、ハクシャは呟くように言った。
「どこかでホノイロが私たちを見ているのね」
「そうみたいだな。ほら、舟の用意がしてある。これで来いということだろうな」
 ソドウはそう言うと小さな小舟を指差した。
 一人が乗るだけで精一杯の小さな舟だ。ソドウがハクシャを促がすと、ハクシャは舟に乗り込んだ。ハクシャは小さく震えて舟をしっかりと握っていた。水の流れが近くなるにつれて、その顔は青白くなっていき、噛み締めた唇から血が滲んでいった。
「舟を止めて!」
 その声に驚きながら、ソドウは川に入ると舟を押し戻した。
 遭難してこの島に辿り着いたハクシャにとって水の恐怖は簡単に拭えるものではなく、不安定な舟の動きに身を任せる気になれなかったのだ。ソドウがそのことに気づいたとき、ハクシャは息を整えながらかすれる声で話し出した。
「ごめんなさい、ソドウ。私は他の道を探すわ。気にしないで先に行ってちょうだい。すぐに追いつくから」
 ホノイロが仕組んだことなら、他に方法がないことは容易に想像が出来る。ソドウは首を横に振った。
「橋が架けられていたくらいだ。他の道があるとは思えない」
 ハクシャは前を見ようとしない。両手を舟の縁にかけたまま、下を向いている。
「今は一人にして欲しいの」
「それは出来ない。ここは危険すぎる」
 ソドウがしばらく動かないので、ハクシャは不安を口にするしかなかった。
「舟が揺れるのがこんなに怖いなんて。これでは海を越えられない。ラーフジクに帰れないわ」
 これほど自分を追い詰めなければ、先には進めないのだろうか。あまりの痛々しさにソドウはそれ以上見ていられなかった。
「とにかく、揺れなければいいんだな」
 そう言うと彼は水の中に入っていく。ハクシャが乗ったままの舟を押しながら、川の中央へと進んでいった。
 ハクシャは慌てて上体を起こした。このままソドウは川を渡るつもりだ。
「止めてちょうだい。泳いで渡るのは無理だって、さっきソドウが言ったばかりじゃないの!」
「大丈夫。舟の重みがあれば流される事はないよ。深いのは中央だけのようだし」
 舟を押すソドウの手が奪われていく体温を取り戻そうと小刻みに震えている。ハクシャがソドウの手に自分の手を重ねると、氷のように冷たくなっていた。
「手が冷たいわ。風邪をひいてしまう」
「そうしたらハクシャが看病してくれるだろう。それでいいじゃないか」
 ソドウはハクシャの罪悪感が消えるように微笑んだ。水は確かに刺すように冷たかったが、足が川底に着く分、時間はかけずに渡ることが出来そうだとソドウは判断した。
「それに、舟に乗れなくても問題ない。俺が橋を架けるから」
「橋? こんな川じゃないのよ。海に橋を架けるつもりなの?」
 舟が遭難するような荒い波風。ハクシャには夢物語のようにしか思えなかった。
「もともと俺はその為に大陸の船に乗って来たからな。少し遠回りしたおかげでやり遂げる覚悟が出来たよ」
「でもソドウ。大陸の人は居ないわ。一人でそれだけのことをしようと言うの?」
「ああ、だから何十年もかかるかもしれない。でも、いつか二人でラーフジクに帰ろう」
 ソドウの言葉にハクシャは小さく何度も頷いた。涙が頬を伝って、水面に落ちていった。
 目に映る水の色が変わった。どうやら一番深いところに来たようだ。ソドウは水底が途切れるのを足で確認した。勢いを付けて水底から足を離すと、水を必死で蹴る。泳ぎはあまり得意ではなかったが、短い距離なので力任せでも何とか乗り切ることが出来そうだ。
「ソドウ。もうすぐよ」
 ハクシャが進む先に浅い場所を見つけた。ソドウも安堵の表情を浮かべる。
 その瞬間、ソドウの身体が大きく仰け反った。何かが脚に絡み付いている。ソドウは抵抗しようとするが、動けば動くほど絡まって体力を奪われた。舟からソドウの手がゆっくりと離れていく。
「ソドウ!」
 反射的にハクシャが舟から乗り出すと、舟は大きく傾いた。ハクシャは舟が揺れる恐怖に悲鳴を上げながらも、ソドウに手を伸ばす。それを見たソドウは抵抗を止め、舟を力いっぱい向こう岸へ押した。
 流れていく舟を見送り、ソドウは水面に沈んでいった。ハクシャはそれを、遠ざかりながらただ見ていることしか出来なかった。
 
 
 薄暗い森に夜が訪れていた。暗闇は川を黒い塊へと変えていく。
 ハクシャは地面へ辿り着いた舟から降りることも出来ずに、ソドウが消えていった水面を呆然として見つめていた。
 木々の合間から裾の長い服を着た女性が静かに歩み寄り、舟の隣で立ち止まった。彼女はハクシャと同じ方向を見ながら、感情のない声で話し出した。
「人を留まらせる方法は本当に少ないわ。安定した生活にはいずれ飽きてしまう。記憶を奪っても取り戻そうとする。それなら脚を奪ってしまえばいい。先に進む気持ちをへし折ってしまえればもっといい」
 燃え上がる炎のような色をした髪は、柔らかな曲線を描きながら身体に沿っている。
 ハクシャが自分を見ていることに気づいたのだろう。彼女はハクシャに視線を移した。
「お帰りなさい。イナシロ」
 自分を違う名前で呼ぶ冷たい声と、口角を歪ませるように引き上げた表情に、ハクシャは底知れない恐怖を感じた。
 
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