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  異界の境界の緑  第十四話 木堅 (カシ)
 
 周辺の風景に溶け込んでいた一本の木が、強い光と共に人の形へと変化していった。ハクシャはその眩しい光から目をそらさずに、祈るように両手を握りしめながら立っていた。光は次第に弱くなると闇へと落ち着いていく。現れたソドウは自分が置かれた状況が分からずに暗い森を見回していた。
「ソドウ!」
 ハクシャはソドウの胸へと飛び込んだ。彼女は幻ではないことを確かめるように、彼の肩に腕に自分の掌をあてた。彼女の様子に、何が起きたのか把握出来ないソドウは戸惑いを隠せずに空を仰いだ。自分が森に閉じ込められたことを思い出した彼は、ハクシャの背中を軽く叩きながらゆっくりと彼女の顔を覗きこむ。
「ハクシャ。無事なのか?」
「ええ、ええ。私は大丈夫。ごめんなさい、取り乱してしまって」
 滲んできた涙を指先で拭いながら、ハクシャは落ち着きを取り戻そうとした。ソドウと再会出来たものの、この森から抜ける手立ては見つかっていなかった。今も頭上では擦れあう木の葉が黒いざわめきを奏でている。安心しきるのは早いと彼女は深呼吸をした。ハクシャがソドウから離れると同時に、黒いざわめきの向こうでぱらりという音が聞こえた。肌に冷たさを感じてハクシャは空を見上げる。闇から降る雨は次第に強くなっていった。
 近場にあった巨木の根の下に避難すると、ハクシャはホノイロのことをぽつりぽつりとソドウに話し続けた。彼はただ頷きながら無言で聞いていた。
 その間にもソドウのこめかみを水滴が流れていく。ソドウは川に落ちてからそんなに時間が経っていないように感じていた。祖堂は相変わらず時間の経過というものが安定していない。
 ハクシャは腰に付けていた袋から綿の布を取り出すと、ソドウの頬を流れていた水滴を拭った。彼は礼を言うと、ハクシャから布を受け取った。
 ハクシャは光の届かない森に閉じ込められているにも関わらず、自分が微笑んでいることに気づいた。ソドウがいないことに対する不安だけではない、もっと深くにある自分の不安を彼はそこにいるだけで消してしまった。この人がいなかったら自分の旅はここで終わりを告げていただろうと、ハクシャは思った。
「ソドウに会えて本当に良かった」
 ハクシャはソドウの隣に座ると、膝を抱えながら呟くようにそう言った。気が動転していたとはいえ、先ほどの自分の行動を思い返すと、顔が赤くなる。誤魔化すように顔を膝に埋めるハクシャの様子に全く気づかず、ソドウはいつものように笑った。
「俺こそ見つけて貰えて良かったよ。川に沈んでからの記憶が全くないんだ。ハクシャがいなければきっとまだあの場所にいただろうな」
「今だけの話じゃないわ」
 ソドウは彼女の言葉の意味が分からず、不思議そうな顔をしていたが、ハクシャはただ微笑んだだけだった。
「雨は止みそうにないわね」
「明日、晴れたら出口を探してみよう」
 ハクシャはこの雨が長く続く予感がしていた。けれど、ソドウには何も言わなかった。
 
 
 次の日もまた次の日も冷たい雨は続いていた。日を重ねるにつれて気温が下がり続けていくので、雨が弱まったときを見計らって二人は移動を続けた。
 出口らしきものは全く見つからない。それどころかどんどん深いところに入り込んでいるような気がしていた。わずかな光は森の闇に飲み込まれていく。
「この森は変だな。新しい木から倒されていて、残っているのは古い木ばかりだ。加えてこの起伏の激しい地形。岩ばかりで土も少ない。脆くなった根が千切れて、いつ地すべりが起きても不思議はないな」
 ソドウは乱暴に倒された細い幹を、気の毒そうに触りながら哀しい目をして言った。ハクシャはホノイロが祖堂の外には出られないと言ったことを思い出して、ソドウへ質問することにした。
「このままでは、外に出ても、ここにいても、ホノイロは長く生きることが出来ないということ?」
「新しい木を植え続ければ、まだ可能性はある。でも、この木は人に倒された可能性が高い」
 ソドウにしては歯切れの悪い返事だった。この森の姿はホノイロが望んだ結果だということはハクシャにも理解出来たが、何のためかということは全く想像が出来なかった。しばらく地面を見ていたハクシャは、視線を上げると深く息を吸って前を見据えた。
「奥に行ってみましょう」
「危ないのは分かっているんだろうな」
 ソドウは再確認するようにハクシャの顔を見た。ハクシャはしっかりと頷く。
「ええ。それから、このままでは外に出られないことも知っているわ」
 ますます大きく太くなっていく木々が先には立ちはだかっている。それでも、前に進もうと言う彼女を彼は止めることが出来なかった。
「地すべりの前兆がないか確かめながら登っていこう。声をかけたら、身体を低くして手近なものにしがみついてくれ」
 ソドウが立ち止まりながらゆっくりと歩いていく。ハクシャも体勢を低くし、手探りしながら前に進んだ。急な上り坂の向こうに比較的平坦な土地が広がっている。大きな木が立ちはだかる中、ぽかりと空いた一角があった。
「不自然な場所ね」
「行ってみよう」
 明らかに人の手が加わった場所だった。しばらく歩くと、目の前に雨風を防ぐ程度のささやかな小屋が姿を現した。二人はしばらく立ち止まって耳をすましたが、人の気配はしない。ハクシャは中を覗き込みながら、軽い扉をそろりと開けた。
「お邪魔します」
 呟きに似た挨拶は沈黙に吸い込まれる。小屋の中には簡素な寝台が二つ。食器棚には木で作られた器が置かれていた。しかし、屋根や床、壁にいたるまであちらこちら腐食が進んでおり、現在人が住んでいるとは思えない状態だった。
 それでも辛うじて倒れずにいるのは、小屋の外も中も関係なく、はびこっている蔓のおかげだった。ハクシャは蔓に足をとられないよう注意しながら、丸い机の前へと進んだ。机の上に置いてあった一輪差しを両手に取ると、すっかり枯れてしまった花がくるりと回った。
 全て、イナシロが出て行ったときのままにしてあるのだろう。幸せだった時間を巻き戻したいと願うホノイロの気持ちが、切なさを伴いながらハクシャの心を締め付ける。
 独りは嫌だ。だけど、この森を離れては生きていけない。そんなホノイロには待つことしか出来なかったのだろうか。繋がる道を分断するほどの哀しみとは、どんなに深いものだろうか。
「どうしてイナシロはここから出て行ったのかしら?」
 ハクシャは茶色の花を見ながら、ぽつりと疑問のひとつを口にした。
「なぜ、不思議に思うんだい?」
「だって、大陸に行くためだったとしたら、病気になる前に海を渡るでしょう?」
「そうだな。確かに時間にズレがある。彼女は森の変化に気づいて、ホノイロをここから連れ出そうとしたのかもしれないな」
 ソドウの言葉にハクシャは頷いた。この生活の跡から受ける印象は、逃亡や裏切りとはかけ離れている。それに、慈しみの果てに離別したと考えると、イナシロが帰ってくると信じきっていたホノイロの言葉と一致する。
 ハクシャは一輪差しを元の場所に戻すと、振り返ってソドウの目を真っ直ぐ見た。
「ねえ、ソドウ。私、もう一度ホノイロと話をしてみようと思うの」
「君はイナシロになるつもりはないのだろう?」
「ええ、でも彼女を避けて前に進むことは出来ないわ。そして、彼女が望むなら私はここに留まる」
「何を考えているんだ?」
 眉をひそめるソドウにハクシャは自分の考えを話し始める。
「ホノイロはここから出ないと思うわ。だから、崩落を止めるしか方法はない。それには、ここに残ることが必要でしょう? それに、ホノイロが欲しいのはたった一人の人だけだから、彼女の不安を取り除くことが出来れば、出口は開く。ソドウはそこから祖堂の外へ出てちょうだい」
「駄目だ。ハクシャを置いていくなんて、そんなことは絶対にできない」
 ソドウは何度も首を横に振る。険しい表情の奥に哀しみが見え隠れする。
 それでもハクシャは譲らなかった。反対されるのは分かっていたし、彼と別れるのは辛かった。それでも、この人だけは、ラーフジクに帰さなくてはいけない。ハクシャの決心は固かった。
「置いていくのではないわ。私はホノイロとこの森を新しくしていく。古くて脆い森ではなくて新しくて強い、風の通る森へ。そうしたら、きっとラーフジクが見えてくる筈でしょう? そこには、ソドウが架けてくれた橋があるわ。どれだけ時が流れても、私はその橋を渡ってラーフジクへ帰る」
 ハクシャはソドウの両手を自分の掌で包むと、願いを込めるのと同じだけの力を込めた。
「だから、先に行って橋を架けてくれないかしら? ソドウ」
「それで君はいいのか?」
 ソドウの真っ直ぐな瞳がハクシャの心に突き刺さる。これから何度も、同じような痛みが波のように押し寄せてくるだろう。それに耐えていくためにも、彼女は微笑んだ。
「ニワウメの森を抜ける前は、この森が私の目的地だったわ。ここでイナシロの代わりをすることで、祖堂を繋げようと思っていたの。でも、今は違う。私には帰る場所があって、帰るために橋を架けてくれようとしている人がいる。私が私の場所に戻るまで、旅は終わらない」
 長い沈黙が辺りを包んだ。屋根が剥ぎ取られそうな音がして、ソドウは頭上を見た。風が強くなっている。今来た道を戻るのなら出来るだけ早いほうがいい。
「分かったよ、ハクシャ。じゃあ、これは俺からのお願いだ」
 ソドウはそう言うと、懐から一本の竹笛を取り出した。ハクシャの白い指がそれを受け取る。
「橋を架けるには長い時間がかかるだろう。もし、諦めそうになっても、この笛の音が聞こえたら、俺はもう一度立ち上がれる。この笛を吹いてハクシャが元気でここにいることを伝え続けて欲しい」
「分かったわ。でも、あまり期待しないでよ。笛はあまり得意ではないから」
 笛を受け取りながらハクシャは小さく声を出して笑った。祖堂の中と外では時間の流れが違う。二度と会えないかもしれないという考えが頭をよぎったが、彼女は出来るだけ笑って別れようと思った。ソドウもハクシャの気持ちとそう変わらないのだろう。彼は扉を開けながら、ハクシャに笑顔を見せる。
「じゃあ、元気で」
「ええ、ソドウも元気でね」
 ソドウの手が扉から離れていく。その扉に手をかけたハクシャは、彼が来た道を戻るのを確認すると、小屋に戻りゆっくりと内側から扉を閉めた。これは自分が決めたことだと何度何度も心の中で繰り返しながら。
 
 
 それから長い間、ハクシャは光をなくした小屋でホノイロを待っていた。ゆらゆらと動く薄い扉から視線をそらすことが出来ない。自分で閉じた扉を、これほど見つめたことはなかった。
 そうして立ち続けていると、音のない森の中で、自分も木になったように思えてくる。誰にも知られず、森と同化してしまうような感覚におちいる。イナシロに傍にいて欲しいと願うホノイロの気持ちが分からないでもなかった。けれど、もうイナシロはいないのだから、ホノイロは別の方法を考えなくてはならない。
 扉の隙間から風が吹いてきた。最初は風が扉を揺らしているような小さな動きだったが、人の気配がすることに気づいた扉の向こう側にいる人物が、大きく扉を開ける。木の葉を舞い上げる風と共に、その人は小屋の中へと入ってきた。
「イナシロ、ここにいたのね」
 小屋の中を見渡し、他に誰もいないことを確認したホノイロはぱっと表情を輝かせた。イナシロはホノイロにとって、こんなにも生きる糧となっている。沢山用意していたはずの言葉を発することができずに、ハクシャはホノイロを見続けた。
「待っていてちょうだい。すぐに水を汲んでくるわ」
 ホノイロは全く気にしない様子で、小屋の中を整え始める。今までの時間がなかったかのように振舞う彼女も、頭上から木の葉が落ちてきたことに関しては、苦笑いを浮かべながら時の流れを認めるしかなかった。
「屋根も直さなくてはいけないわね」
 それすらも楽しそうに言って、ホノイロは笑う。飲み込まれてはいけないとハクシャは、姿勢を正した。
「それは、明日でもいいわ。ここで生活を始める前に話しておきたいことがあるの」
「何かしら?」
 ホノイロの瞳に鋭い光が見えた。ハクシャは懐に入れた笛を握りしめながら、絡まった糸を解くように話を進める。
「この森が崩れ始めていることは気づいているわね?」
「もちろん、知っているわ。それでも私は外に出ないわよ」
 だから何だと言いたげなホノイロに、根気強くハクシャは語りかける。
「私は貴女が外に出ることがどうしても必要とは思わない。そして、私もここに残るわ」
 ハクシャが残ると言った瞬間、ホノイロの表情は今までになく光り輝いた。けれど、その表情は困惑へと変化し、最終的に疑惑に染まった。
「どうして急に?」
 小屋の外に降りしきる雨と同じぐらい冷たい声が小屋に響く。ハクシャは暖かく包み込むように笑顔を浮かべながら、ホノイロへ語りかける。
「このままでは朽ちていくだけだわ。私たちは前に進まなくては、祖堂を次へと繋げていかなくてはいけない。だから、私は貴女の傍で新しい森をつくっていこうと思うの。思い出の森ではなく新しい森を」
 ハクシャの言葉に、ホノイロは首を横に振ると、懇願するような目をしてハクシャを見た。
「それは、私の欲しい森ではないわ。失ったものを全て取り戻して元どおりにしたいのよ。そのために私は貴女を待っていたのだから。ねぇ、イナシロ。外のことなんて忘れて、ここで今までどおり暮らしましょう。私の願いはただそれだけ」
 ホノイロが捕らわれている恐怖はハクシャの想像を遥かに超えて深く暗かった。それは、狂気に近い。解きかけた糸がますます絡まっていく。息苦しさを感じたハクシャは自分で自分を抱きしめるような体勢をとりながら、声をしぼり出した。
「外のことは忘れられないわ。私には帰りたい場所がある」
 そんなハクシャを嘲笑しながら、ホノイロは見下ろした。
「外とここでは時間の流れが違うわよ。果たしてどれだけの人が貴女の帰りを待っていてくれているかしらね」
 まるで、自分の心と話しているようだとハクシャは思った。内側にある不安が全て降りかかってくる。恐らく今の段階でも、ラーフジクに自分が生きていることを信じている人はいないだろうと、ハクシャは思った。もう二度と知った顔を見ることは出来ないのかもしれない。
「それでも、私には橋があるわ」
 小さな呟きはホノイロには届かなかったようだった。けれど、それはハクシャの心に灯火のように残った。生きていることを信じた証はきっと、残っている。それを私も信じていける。ハクシャは真っ直ぐホノイロに向き合い、彼女に聞こえるようにはっきりと語りかける。
「もう一度ラーフジクに立てるなら、誰も待っていなくても構わない。だから、私はこの森が変わるまで、貴女が変わるまでここにいる。急がなくていいから、ゆっくり変わっていきましょう、ホノイロ」
 その微笑みにホノイロはただ、下を向いたまま何も答えなかった。ハクシャは答えを焦らず、ホノイロに向き合っていた。
 沈黙の中、小屋のすぐ脇を川の流れるような音がした。その音を待っていたかのように、ホノイロは狂気が貼り付いた笑顔で宣言する。
「もう、何もかも遅いわ」
「どうして?」
「ここにある木、全てが中は空洞なのよ。内側から腐っていっている。外側が堅いから何とか立っている状態なのよ。終わりは目の前まで迫っているわ。だから、せめて全てを道連れにするの」
 再び強い雨が降り出した。屋根の間から冷たい雫が大きな粒となって、ぽたりぽたりと落ちてくる。ハクシャの白い髪を伝って落ちていく水滴が床に歪な染みをつくっていった。そして、水の力を借りて冷静になったハクシャは、ホノイロの言葉の矛盾に気がついた。
 終わることと一緒にいることは同時に存在しない。それなら、今、ここで話し合おうとしていたことは何だったのだろうか。絶望感に苛まれながら、ハクシャはホノイロに問う。
「ホノイロ。貴女は最初から全てを終わらせるつもりだったのね?」
「貴女がいなくなってから、よ。イナシロ」
「それなら、時間は沢山あった筈ね。森と共に崩れていくつもりなら、元どおりにしたいと言うのは嘘なの?」
「いいえ、本当よ。イナシロがいなくては、この祖堂に終わりは来ない。全てを何もかも始まる前に戻すのよ」
「だとしたら、この時間稼ぎは何のため? 貴女、本当は何を待っているの?」
 敵意を向けられたホノイロは、表情を変えることなく、ハクシャに現実を付きつけるように小屋の扉を開けた。
 激しい雨は地面をえぐりながら、下へ下へと流れていっていた。這うべき地面をなくした小さな木の根は幹を支えることが出来ない。小さなものから次々と濁流に飲み込まれていく。
 小屋も例外ではなかった。床は歪み、立っているだけで精一杯だった。これだけ急激な変化が訪れるとはハクシャは思っていなかった。恐怖に震えるハクシャにホノイロは、口角を引き上げながら言い放つ。
「根が崩れるのを抑えるために、二人で組んだ石の壁を覚えているでしょう? 貴女が戻ってきたあの日から、それをひとつひとつ倒してきたの」
 ハクシャの前に差し出されたホノイロの掌には、生々しい擦り傷が無数に残されていた。そして、掌をかえすとめくれ上がった爪の隙間に入り込んだ土が、血と混ざり合ってどす黒く光っている。
「私が待っていたのは、雨よ」 
 その時、大きな地響きが聞こえたかと思うと、地面が生き物のように蠢いた。宙に投げ出されたハクシャは小屋の隙間から、巨木が立ちはだかるもの全てを倒しながらこちらに向かってくるのを見た。
 何かに捕まらなければ! ハクシャはとっさに扉へと手を伸ばしたが、もう一歩のところで届かない。頭上から泥が全てを飲み込むように覆いかぶさる。
 冷たさを感じ始めたところで、ハクシャの手は何かを掴んだ。それは小屋にはびこっていた蔓だった。小屋がなくなったことで、蔓はもともとの宿り主を明らかにした。それは大きな木だった。ハクシャはその木が泥の流れに影響されていないことを確認すると、蔓をしっかりと持ち直して木の上を目指した。
 泥にまみれた服はとても重く、動きづらい。ようやく、安心できる位置まで登ったハクシャは、自分の目を疑った。あれだけの衝撃だったにも関わらず、巨木は他の木々に支えられ、途中で止まっていた。そして丁度死角になっているのか、ホノイロは巨木の存在に全く気がついていない。
「ホノイロ! 早く逃げて!」
 ハクシャは全身全霊を込めてホノイロを呼んだ。しかし、どれだけ、声を張り上げても泥水が流れる音でかき消されてしまう。
 ハクシャは懐に入れていた笛を取り出すと、力いっぱい吹いた。高い音が森を駆け巡ると同時に、木々の割れる音と共に巨木が動き始めた。ハクシャに気づき目を見開いた後、何かを言おうとしたホノイロに、再び転がり始めた巨木がのしかかった。
 それはあっという間の出来事だった。動きを取り戻した巨木は勢いを増して、ホノイロを飲み込み、さらに下へと転がっていく。その勢いで何本もの木が倒れていった。
 木が割れる音、根が千切れる音、泥が流れていく音。全てが終わるに相応しい音の中、ハクシャは何度も目を背けたいと思いながら、全てを見続けていた。永遠に続くかと思われた音は時間と共に次第に小さくなり、森は静けさを取り戻した。
 
 
 笛の音を聞きつけて急いで引き返したソドウが、青ざめて地面に座り込んでいるハクシャを見つけたのは、それから二日後のことだった。
 何を言っても、身体を揺さぶっても反応がない。ソドウはただ一つのことを聞くしかなかった。
「ホノイロは?」
 その問いを受けてハクシャはびくりと身体を震わせた。よほど恐ろしいことがあったのだろうと、ソドウは察して、ハクシャの泥だらけの手に自分の手を重ねる。
 ハクシャはゆっくりと話し出した。ホノイロが最初から全てを終わらせるためだけにイナシロを待っていたこと。そして、巨木と土砂に飲み込まれていったことを。
「結局、私は何をしにここまで来たのかしら? 祖堂を繋ぐなんて、無理だったのかもしれないわ」
 頭の中で反芻していた言葉を、声にしたことで押し殺していた感情があふれ出す。ハクシャはそのまま激しく泣き崩れた。雨は止んでいるものの、この場所はまだ安全ではない。それは十分分かっていたけれど、まだ、歩き出す気にはなれない。
 泥にまみれた髪の毛がハクシャの顔にまとわりつく。どれだけ汚れても白は白でしかなく、その事実がハクシャの哀しみをさらに深いものにしていく。
「この髪は結局、何の役にも立たなかったわ」
 そう言うとハクシャは立ち上がり、懐から小刀を取り出すと髪を引き千切るように切っていった。地面に落ちるハクシャの涙は止まらない。痛々しい姿にソドウはかける言葉が思いつかなかった。
 行き場を失った白い髪は、白い帯のように流れていく。風も吹いていないのに奇妙なことだとソドウは思った。帯はそれ自体が意識を持っているように動いていき、白い幻へと姿を変えた。
「ハクシャ」
 ソドウに呼ばれてハクシャはゆらりと頭を上げた。目の前にいる白い幻が誰なのかはすぐに想像がついた。幻は掴めないと分かっていても、ハクシャは手を伸ばさずにはいられなかった。
「イナシロ。貴女はどうしたかったの? 私はどうすれば良かったの?」
 ハクシャの言葉に答えるかのように、イナシロの幻はホノイロが流れていった方角へふわりと移動した。そして、ある場所で立ち止まると、ハクシャに向かって深く頭を下げ、空へ立ち上る煙のように消えていった。
 ハクシャはソドウに支えられながら、イナシロが消えていった場所に足を進めた。土砂が小さく盛り上がっている。ここにホノイロが眠っている。それを指し示すように、地面には二本の枝が二組並べて置いてあった。
「森がホノイロを連れていき、イナシロがホノイロを迎えに来た。俺はホノイロにとってこれ以上のことはないと思うよ」
 イナシロが消えていった空を見上げたハクシャは、降り注ぐ光を感じて目を細めた。あれだけ暗かった森に光が差し始めている。ほの明るいその先には倒れた巨木が作り出した道があった。ホノイロが眠る場所より、さらに遠くまで転がっていった巨木。
 答えはこの先にあるのかもしれない。
 この道は最後の祖堂へと繋がっているとハクシャは確信した。枝を受け取った彼女は、無言のまま巨木の後を追うように新しい道へと足を進める。ソドウは彼女を支えるように隣に並んで歩き続けた。
 
 
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