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  異界の境界の緑  第十七話 木区 (カラクリ)
 
 木々と腐葉土で作られた森の匂いの中に、潮の香りが混じり始めた。ソドウは懐かしさを感じながら立ち止まった。こんな風に何度も足を止め、己を振り返ってここまでやってきた。彼は確かめるように一歩また一歩、進んでいく。繰り返してきた動作は身体に沁みついている。ハクシャはそんなソドウの横を歩き続けた。
 しばらくすると、ハクシャの目の前に見覚えのある小屋が見えてきた。小屋の周りに人影が見えないことを除くと、静かで穏やかな森は以前と全く変わらないように思えた。
「ここで、ソドウと出会ったわね」
 ハクシャは振り返ると懐かしそうに言った。ソドウは視線を空へ向け、重なり合う枝を見上げて答える。
「ああ、そうだったな。随分前のような気もするし、この間のことだったような気もする」
「長いような短いような旅。それがもうじき終わるのね」
 木の葉のざわめきが頭上から降り注ぐ。ソドウは視線をハクシャへと戻すと、肩をすくめながら苦笑いをした。
「始まったところに戻るというのは、あまり終わった気がしないな」
「それもそうね」
 正直な感想に、ハクシャも微妙な笑みを浮かべる。それでも、今、旅は終わろうとしていた。最初にここに来たときには、まさかこんな日が来るとは思っていなかった。
「そういえば、集めてきた枝はどうしたらいいのだろう?」
「それも聞かないといけないわね」
 ハクシャは小屋の前に立つと、深呼吸をした後、軽く二回扉を叩いた。しかし、返事はなく物音すら聞こえない。
 報告しなければならないこと。聞いておきたいこと。すぐにでも話が出来ると思っていたハクシャは少し気が抜けたような表情を浮かべた。
「誰もいないのかしら?」
 漠然とした不安は次第に困惑へと変わっていく。ソドウはハクシャに気づかうように辺りを見回した。小屋の周りはきちんと手入れされている。ここから出て行ったというわけではないようだ。
「どこかに出かけているのかもしれない。少し待ってみようか」
 ただ闇雲に森を歩き回っても仕方ない。ハクシャはソドウの言葉に頷いた。二人が扉の前に座ろうとしたとき、小屋の中からことんと小さな物音がした。
 ソドウは再び扉の前に立ち、ゆっくりと鍵のない扉を開く。すると、窓から差し込む陽だまりの中に人影が見えた。
 机に覆いかぶさるように眠っている少女がそこにいた。年の頃は十二、三といったところだろうか。針仕事の途中だったようで、机から彼女の膝に渡って衣服になりかけの布がかかっている。
 外からの風が髪の毛を揺らし、少女は目を覚ました。不用意に動いたせいで布がぱさりと音をたてて床に落ちる。彼女はしばらくぼんやりと床を見ていたが、扉が開いていることに気づいて、頭を振りながら立ち上がった。
「ごめんなさい、兄様。眠っていたみたい」
 そう言いながら、少女は床に落ちた布を拾い始めた。しかし、開いた扉からは声がかからない。不思議そうに扉を見た彼女は、驚きに目を見開いた。
 音にならない言葉が空気となって吐き出され、もう一度彼女のもとへ戻っていく。それを即座に飲みこみ、少女は叫んだ。
「ハクシャ! ソドウ!」
 勢い余って、彼女が座っていた椅子が大きく音を立てて倒れる。ハクシャは少女の中に懐かしい面影を見つけ、確かめるように小さな声で問いかける。
「モクノイ?」
 少女はハクシャの顔を見ながら、何度も頷いた。目にうっすらと涙が浮かぶ。
「道が繋がったのね? みんな帰ってくるのね?」
 興奮して自分にしがみつくモクノイの背中を、ハクシャはゆっくりとさすった。
「色々なことがあって、話は長くなりそうだわ。今晩は泊めてもらえるかしら?」
 落ち着いた口調に、モクノイは深い呼吸を何度かして、ハクシャから離れた。
「爺様と兄様を呼んでくるわ」
 モクノイは照れくさそうに微笑みながら、ハクシャとソドウの脇をすり抜けて、森へ向かって行った。その後姿を見ながら、ソドウはようやく言葉を取り戻して呟く。
「一体どれくらいの時間が経ったんだろう?」
 ハクシャも首を傾げて考えた。季節をひとまわりした記憶さえあいまいで、全く想像がつかない。
「モクノイの成長からいって、四、五年というところかしら? 全然、実感がわかないけれど」
「これだけ時間が経っているということは、森の外はどうなっているんだろうな」
 考えても仕方がないと分かりながら、不安を拭うことは出来なかった。聞こえてくる小鳥のさえずりは以前と変わらない。けれど、村の様子や自分たちの島の様子は、変わっていないという保障はない。
 モクノイはなかなか戻ってこない。冷たい風が吹き始めたころ、ようやくニチアイが翁を支えながら歩いてきた。ニチアイの背丈は随分伸びていて、ハクシャより高くなっている。一方、翁は丸みを帯びた背のためか、以前より小さく見えた。
「お久しぶりです」
 他に言葉が見当たらず、ハクシャは無難な挨拶をした。翁はハクシャとソドウの姿を見ると、顔の皺を深くして微笑んだ。
「よく帰ってきてくれた。今日はゆっくり休んでおくれ」
 翁に促がされるまま、部屋に入ったソドウはずっと持ち歩いていた荷物を下ろした。固まった肩は荷物がなくなったことをなかなか納得してくれない。いつまでも残る重みに苦笑いしながら、ソドウは皆の集まる方へ足を運んだ。
 
 
 風のない静かな夜だった。小さな灯りを囲むように五人は座る。
 炎がわずかに揺れるくらいの短い沈黙の後、あまりにも個人的だと思われる出来事は除き、ソドウとハクシャは祖堂とそこで出会った人のことを話し始めた。
 あれだけ色々な出来事があったというのに、いざ言葉にしてみると、長い旅も客観的で他人事のように聞こえる。しかし、ホノイロの話になった途端、ハクシャの声は小さくなっていった。
「ホノイロは森と一緒に逝きました。そして、彼女に寄り添うように、白い髪の人がいたように思います」
「母様がいたの?」
 すがるような目をしながら、モクノイが問いかけた。答えにつまるハクシャを助けるように、ソドウが答える。
「実際に人が立てる場所ではなかったよ」
「でも、いたんだ」
 ずっと話を聞いていたニチアイが口を挟んだ。成長して低くなった声のせいか、随分と落ち着いたように見える。ハクシャは多くの言葉は必要ないと思った。
「ええ。強い意志の持ち主だったのね。貴方たちのお母様は」
 ハクシャの言葉に沈黙が静かに覆いかぶさっていく。それを断ち切ろうと、ソドウは身を乗り出した。
「随分と時間が経ったようだけれど、森の外は、村はどうなっているんだ?」
 ニチアイは深く息を吐いた。視線を少し下に向けながら、諦めたように口を開く。
「人の出入りはあるけれど、何も変わらないよ。大陸の人間が持ってきた道具が錆びたぐらいの変化しかない」
「ということは以前と変わらず、海で死ぬ人がいるのか?」
「うん。空が動くと海も動くから」
 ソドウの暗い表情に、モクノイの声も小さくなる。こうやって、受け入れがたい現実を何度見てきたのだろう。ソドウはニチアイに視線を移した。
「大陸から持ち込まれた道具はもう使えないだろうか?」
「俺には難しいことは分からないけれど、さすがにあれだけ朽ちてしまったら無理だと思うよ」
 そこまで言って、ニチアイはソドウを凝視した。
「まさか、ソドウ。橋を架けるつもりじゃないだろうね」
 そんな馬鹿なことを、と言いたいのはソドウにも分かった。それでも彼は短く言い切る。
「架けるよ」
「海を渡る橋なんて、出来るはずがない。帰るだけなら舟を待てばいいだろ?」
「確かに帰るだけならそれでいいかもしれない。でも、俺はハクシャと帰りたい。そして、セイトーロとラーフジク、二つの島を繋ぐきっかけを作りたいんだ」
「そんなこと出来るはずない」
 ニチアイは何度も首を横に降った。すると、ずっと黙っていた翁が、昔話をするように話し出した。
「海が汚れて、木々が枯れた。もしくはその反対かもしれぬ。海と森が繋がっているから、両方おかしくなっているとも考えられる」
「だからこそ繋げたい。海の人と森の人を。俺が出来ることは小さなことかもしれないけれど、きっとそれは大きな波紋になって広がるはずだから」
「無理だよ」
 それは、ここにいる誰もが思っていることだった。不可能に近く、夢というには哀しいほど切実な願い。それでもソドウは諦めようとしない。
「俺は出来ないことを見るより、変わらないものを見るほうがよっぽど辛いよ」
「材料は? それを運ぶ人は? 一人で何が出来るって言うんだ」
「確かに方法すら見つからない。だけど、一度は橋を架けることを決めた人達だから、話せばわかってくれると思うんだ。時間はかかるだろうけどな」
 言葉で表わすほど簡単なことではないと、ソドウにも分かっていた。村の状況も見ていない今、具体的なことは何一つ言えない。
「一人じゃないわ」
 黙ってソドウとニチアイの会話を聞いていたハクシャが、突然口を開いた。全員がハクシャを見る。彼女は真っ直ぐ背筋を伸ばし、凛とした態度で宣言した。
「ソドウは一人じゃない。私に出来ることは少ないかもしれないけれど、傍にいることは出来るから。今までソドウがそうしてくれたように」
 ふと、翁が外に目を向けた。
「民木を使うといい」
「民木?」
 ソドウの問いに、ニチアイが重い口調で答える。
「森には神木と民木がある。神のために残す木と、民のために使う木。確かに代替わりが激しい民木は切り出した方がいい。だけど……」
「何か不都合があるの?」
 はっきりしない物言いに、ハクシャは疑問を投げかけた。
「必要なのは一本二本じゃないだろう? ここから大量の木を切り出したら、森の力が弱くなる」
「また、道が途切れると言うことか?」
「そうじゃない。森が自らを守るために、一時的に閉じてしまうんだ。旅人を排除して、俺とモクノイだけを残して」
 ニチアイの泣きそうな顔に、ソドウは息を飲んだ。目的のために自分が傷つく覚悟は出来ていたはずだった。それが、誰かを傷つけることになるとは全く考えていなかった。この兄妹から、祖父を奪い取るつもりなどない。それでも、橋の材料は欲しい。自分の甘さと残酷さを受け止めて、彼は下唇を噛んだ。
 ニチアイは翁の袖を握りしめる。大きな身体に子供らしさが浮き出ている。
「爺様。今までどれだけ村の人間に頼まれても、数本しか渡していなかったのに、どうして急にそんなことを言い出すんだ?」
 それでも、翁はニチアイを子供扱いしなかった。
「時間が必要だったからじゃよ。木と生きるには、お前達は幼すぎた。もう大丈夫だろう?  わしは村に戻り、ここは本来あるべき姿に戻るだけじゃ」
「爺様がここにいられなくなるなんて、そんなの絶対、いや」
 モクノイが翁の背中にしがみついて言った。小さな灯りがゆらゆらと揺れる。
「お前達はわしがいなくても十分役目を果たせる力を持っておるよ」
 今生の別れのような話に、ハクシャは自分が部外者と分かりながら、口を挟まずにいられなかった。
「戻って来ることは出来ないのですか?」
 翁は小さく首を横に振った。
「境目を何度も越えられる体力は残念ながら残っておらん」
「じゃあ、村まで会いに行ってもいい?」
「モクノイ。これからは人の声だけでなく、森の声も良く聞きなさい」
 翁はモクノイも子供扱いしなかった。モクノイにどうにもならない感情が押し寄せる。目に涙を浮かべて、彼女は暗い森の中へ立ち去っていった。
「モクノイ!」
 慌てて追いかけるニチアイが勢い良く開けた反動で、扉が揺れる。二人がおこした風は小屋の中を通り過ぎた。
「良いのか?」
「二人なら大丈夫じゃ」
 ソドウの問いかけに翁が答えた。それが、今の状況をさしているのか、これから先のことなのかハクシャには判断がつかない。恐らく、誰にも分からないのだと彼女は思った。
「翁。貴方のことはクヌギのオリユメから聞きました」
 その言葉に翁は振り返ると、小さく息を吐いて微笑んだ。
「相変わらず、お節介な人じゃの」
「今のは、あまりに急なお話ではなかったでしょうか」
「傍目には急に見えたかもしれぬが、最初に祖堂に留まることを考えたときから、決めていたことじゃ。永遠に続くものがない限り、自分で区切りをつけるしかないのじゃよ。始まりと終わりが同じ場所になっているこの祖堂のように」
「区切り、ですか?」
「自分が思いを断ち切れる覚悟さえあれば、どんな形でもいい」
「二人が大丈夫なら、戻りやすいように奥の部屋にいたほうがいいかもしれないな」
 ソドウの提案で、モクノイが用意してくれていた奥の部屋へと移動したハクシャは、とりあえず横になった。しかし、灯りを消しても、眠りにつくことは出来なかった。翁が言っていた区切りのことや、帰ってこない二人のことが気になる。
 暗闇が不安をかきたてる。身体は疲れているはずなのに、心が休まろうとしてくれない。目を閉じてはまた開く。それを何度となく繰り返した頃、ぱたんと扉が閉まる音が聞こえた。もう眠っていると思っているのだろう。出来るだけ音をたてないように歩いている。
 もし、沈黙がここになければ、彼らの優しさに気づかなかったかもしれない。不必要なものなど、ないのかもしれない。それなら、何を断ち切るべきだろうか。
 寝返りをうつと、不揃いな髪が頬にかかった。見るのも嫌だった、白い髪。これだけ暗ければ色など気にしなくてもいい。だけど、陽の光の中に戻ろうと決めたのは自分だ。
 月明かりが小屋の中を照らした。明日は久しぶりに晴れるだろう。朝になったら、光の中で髪を切ろう。否定するわけではなく、向き合うために。何気ない決意に、心の中の暗雲が少しずつ晴れていく。ハクシャは満足げに微笑むと眠りについた。
 
 
 次の日の朝、水汲みをするモクノイにハクシャは声をかけた。
「おはよう」
「ハクシャ、良く眠れた?」
「ええ」
 あれからずっとないていたのだろう。モクノイの目は赤くなっていた。それでも自分の心配をする彼女に、ハクシャは何事もなかったように話しかける。
「モクノイにお願いがあるの」
「なあに?」
「この髪を揃えて貰えないかしら? 自分で切るとどうも上手くいかなくて困っているの」
「私も兄様に切って貰ってるから、上手くいかないかもしれないわ」
「モクノイに切ってほしいの」
 ハクシャの真っ直ぐな瞳に、モクノイは小さく頷いた。
 モクノイの水汲みを手伝うと、ハクシャは古い切り株に座った。朝日が森に射し込み、影に寄り添っていた。
 モクノイはハクシャの後ろに立ち、白い髪を細い指で梳く。小さな束を作り、良く研がれた小刀で丁寧に切り落としていった。手つきは慣れているとは言い難かったが、ゆっくりと着実にハクシャの頭は軽くなっていった。
「終わったわ」
「ありがとう」
 少し疲れたようなモクノイの声に、ハクシャは心から礼を言った。ハクシャが立ち上がると、落ちきらなかった短い髪が、朝日にあたって白く光りながら風に運ばれていった。
 モクノイは哀しそうに白い光を見送っていた。
「この髪のように、みんなばらばらになってしまうの?」
「ばらばらにはならないわ。姿は見えなくても、心は繋がっているもの。翁が二人のことを忘れるわけがないでしょう」
 ハクシャの優しい声もモクノイには届かない。彼女は木の葉の上に散らばった短い光を見下ろして、どうしようもない苛立ちを吐き出した。
「じゃあ、どうして、切り離してしまうの? もう、いらないからじゃないの?」
「私が髪を切ったのはね、捨てたいと思ったわけではないの。切り離して、もう一度しっかり見てみたいと思ったのよ。近すぎると気づかないこともあるでしょう? 節目はその為にあるんじゃないかしら。もっと伸びるために。遠くへ届くために」
「爺様がここを出て行くのは私達のため?」
 自分達のために犠牲になったのだと、罪悪感を背負っては欲しくなかった。けれど、簡単に飲み込める現状でないことも分かっている。ハクシャは言葉を選びながら、モクノイに話しかけた。
「翁は、自分が出来る最善の方法を取られたのだと私は思うわ。誰かのためなんて、簡単な言葉は相応しくないのではないかしら?」
 モクノイは小さな手を握りしめて、顔を下げてしまった。あらゆる感情と戦っているのだろう。ハクシャはしばらく待つことにした。冷たい風が陽の光で温かくなりだした頃、モクノイは意を決したように顔を上げた。
「ハクシャ。お願いしてもいい?」
 切羽つまったモクノイの様子に、ハクシャは微笑みで答えた。
「伝えて。ここで見たもの全てを伝えて」
「どうして?」
「祖堂の中には避けられる涙だってあったでしょう? これ以上哀しむ人が出ないように、語り継いで欲しいの。それに、その話の中では外の人と同じ時間を生きていけるわ」
 このまま抱きしめてしまえればどれだけ楽だろうか。けれど、それでは前に進めない。今は多くを語るときではないのだろう。痛みも苦しみも大切に心の奥にしまっておこう。ハクシャは輝くように微笑むとモクノイに答えた。
「約束するわ」
 
 
 数日後、ハクシャが翁の体調が良いことを確認すると、ソドウが大きな荷物を肩にかけた。翁が使う杖が、森の中に小さな穴をあけていく。この穴が消える頃、ニチアイとモクノイの心にぽっかりと開いた穴も消えるのだろうか。
 誰も何も話さないまま、森を進む。翁の足下を気にしているせいか、自然と下を向いてしまう。しばらくすると、後ろをついて来ていた小さな足音が急に止まって、ソドウは視線を上げた。
「これが外と祖堂の境目」
 どんなに目を凝らしても、濃い霧がかかっていて先が見えなかった。ここに今から踏み込もうというのか。恐怖心というより、漠然とした不安が自分の中から湧き上がってくるのをソドウは感じた。
「そうじゃ。お主は意識がなかったから知らなくて無理もない。ハクシャは覚えておるかの?」
「私も逃げるように来たから覚えていないわ。過去は案外役にたたないものね」
 困ったような顔をして笑うハクシャを見ているうちに、ソドウに微笑が戻ってきた。確かに、以前のことを覚えていても、今、一歩を踏み出すのは自分だ。心は既に決まっている。
 ニチアイとモクノイは随分手前で立ち止まっていた。
「俺達が来られるのはここまでだね」
 翁に確認するようにニチアイは言った。隣でモクノイが涙をこらえながら、必死に言葉を発する。
「気をつけてね」
 翁は彼らに歩み寄ることはしなかった。そのまま距離をあけて、空を見上げる。
「無事に着いたら合図をするから、空を見ていてごらん」
 意味が分からないまま、とにかく、二人は首を縦に振った。それが、別れの合図となった。
 歩みを進めるごとに、霧は深くなっていった。傍にいるはずの翁とハクシャの姿が見えない。それどころか、ソドウには自分の姿すら見えなくなっていた。手探りで進む道は正しいのか分からない。そもそも進んでいるのだろうか。
 霧が足音すら吸収してしまっているかのように、不自然な沈黙があたりを支配していた。声を出そうと思っても、息を吸い込んだだけで、水分が喉に張り付くような違和感を感じる。ただ、黙々とソドウは歩き続けた。立ち止まらず、振り返らず、一心不乱に前に進む。
 突然、向かい風が身体を揺らした。晴れ渡った空、青い海が目の前に広がる。海沿いには小さな家が集まっていて、人の姿すら見えた。
「ソドウ」
 呆然としていると、後ろからハクシャの声が聞こえた。
「大丈夫か?」
「ええ、私は大丈夫」
「翁は?」
「まだ、霧の中だと思うわ。迷うことはないと思うけど」
 心配そうに森を振り返ったハクシャは、霧の向こうからやってくる翁を見つけた。
「少し休んで、村へ向かいましょう」
 苦しそうに息をしている翁に水を渡しながらハクシャは言った。翁はハクシャに礼を言うと、水をひと口飲んだあと、息を整えた。
「そう言えば、どうやって外に出たことを知らせるんだ?」
「枝を持っておるかの?」
「ええ。ここにあるわ」
「火をおこしておくれ」
 翁の意図するところが分からないまま、ソドウは森から少し離れたところで、火打ち石を使った。燃えやすい枯れ草を使って、炎を大きくしていく。
「これでいいか?」
「枝を炎に入れるのじゃ」
 言われたままに、ハクシャはそれぞれの祖堂で受け取った枝を炎に入れていく。炎は枝によって大きくなったり、小さくなったりしていた。次第に、白い煙が立ち始め、真っ直ぐに空へと向かっていく。
「これが旅人が戻っていった証。祖堂に住む人に伝える唯一の方法じゃ。残念ながら、わしの枝は朽ちてしまって、手元にはないがの」
「それでも、ニチアイとモクノイには伝わったと思うよ」
 ソドウはそう言うと、自分の枝を火に投げ入れた。少しでも長く、遠くでも見られるように。
 時が経つにつれて、炎は小さくなっていった。枝の形は曖昧になっていく。白い煙は、光と闇、有と無、静と動、苦と楽、そして始まりと終わりを全て包み込み、そして、緩やかに消えていった。
 旅人達はそれを見送ると、波の音がする方へゆっくりと歩き始めた。
 
 
 
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