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  Xiang-ge-li-la!  第十三話 見晴台
 
 時計は八時四十分を示していた。出勤組が出払って、静かになった食堂の大きなテーブルにルンルンと向かい合うように座って予定を立てる。
 ルンルンが言い出した、『行きたいところ』は意外な場所だった。
「山に登りたいです」
「山?」
 何でまた登山なんて思いついたんだろう。私が不思議そうに彼女を見ると説明が始まった。
「この近くに中山というところがあるそうです。そこからの風景がとても綺麗だと聞きました」
 ルンルンはホテルのパンフレットを机の上に置いた。昨日、事務所に挨拶に行ったときにもらって来たんだな。ルンルンは中国語版を、私は日本語版を開いた。
 フルカラーで写真が沢山載っている。へー、客室ってこうなっているんだ、とか思いながらページをめくると、周辺の見所というところにそれは書いてあった。
「中山。見晴台までの所要時間は一時間三十分。帰りは少し楽だろうから、往復で三時間弱だね」
 写真を見る限り、登山というよりはハイキングに近い。地図を見ると遊歩道入り口はホテルと寮の間に位置しているから、十五分もあれば辿り着けるだろう。九時に出たとしても十二時すぎには降りて来ることが出来る。
「早めに出発して、お昼はホテルのレストランで食べようよ」
「それはいい考えです」
 今日の予定はあっさりと決まり、一時解散となった。
 
 
 部屋に戻り、小さなリュックにタオルと財布と使い捨てカメラを詰め込んで荷造りは完了した。丁度いいタイミングで扉がノックされる。
「リンリン。準備、出来ましたか?」
「あ、ちょっと待って。一応日焼け止めを塗っておくから」
 畑仕事のせいで良く焼けている。今さら、気休めにもならないけれど、真っ黒な腕にもしっかり塗っておく。
「お待たせ」
 ルンルンはトートバッグを右肩にかけて、手には空のペットボトルを持っている。
 玄関に向かう前に、食堂に入ると冷蔵庫を開けた。二本並べた空のペットボトルに冷たいお茶を入れていく。直売所まで行かないと自動販売機はない。必然的に身についた生活の知恵だった。
「はい」
 ルンルンの分を渡すと、彼女は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
 私はタオルでペットボトルを巻くとリュックに詰めた。靴箱から出したスニーカーを履くとしっかり紐を締める。
 ルンルンは玄関に鍵をかけて、郵便受けに入れる。閉まっていることをもう一度確認すると、まっすぐ目的の道へと下りていく。
 外は晴れ渡っていた。青い空に向かって、小さな鳥が飛んでいく。
「遊歩道入り口。ここだね」
 木で出来た看板は、どうして今まで気がつかなかったのかと思うくらい簡単な場所にあった。生活に使う歩道とは違うふわりとした土の感触がした。
 ルンルンは木々の隙間から溢れ出すような光に目を奪われている。
「緑が綺麗ですね」
「ほんとだね」
 よく見ている風景のはずなのに、すごく綺麗に見える。のんびりと散歩が始まった。
 残暑の太陽は容赦なく照り付けていたけれど、遊歩道には木陰が沢山あって、そんなに汗はかかない。
 けれど、しばらくして不思議なことに気が付いた。
「誰とも会いませんね」
 周辺の見所なのにどうしてだろう? 平日といっても夏休み中だ。この辺に遊ぶところはないから、一組ぐらいいたっておかしくない。不安になりながら時計を見ると、遊歩道に入ってから一時間近く経っていた。
 道は少しずつ、登りになっていく。前を行くルンルンの息が少し荒くなっていた。
「前、代わろう」
 交代して歩き出しても、まだそれらしき高台は見当たらない。
「ちょっと休憩しようか」
 登り坂の前の石に二人並んで座った。ペットボトルのお茶は、半分以上なくなっていた。
「お茶、もう一本あっても良かったかもしれないね」
「ごめんなさい、リンリン」
 ルンルンは小さくなって謝った。責任を感じているんだな。別に気にしなくていいのに。
「何で? 楽しいよ。時間もあるから、ゆっくり話しながら行こうよ」
 休憩した後、歩くペースを落とすと比較的楽になった。一時間半をとうに過ぎた頃、突然今までにない登り坂が現れた。
 さすがに話は出来ずに両手も使って登り続ける。
 ルンルンは狭くなった道の端に立ち、木を支えにしながら下を見た。
「建物が見えます!」
 私も身体を低くして近づき、下を見るとホテルが見えた。
「すごいね。あんなに小さく見えるよ」 
「あれが直売所でしょうか?」
「どれ?」
「あれです、あれ」
 ルンルンが指差した先に、木々に埋もれるようにもっと小さな建物がある。
「あ、分かった。そうだよ、きっと」
 みんな、今日も頑張っているんだろう。だけど、ここからではその姿を確認することは出来ない。
「寮はどこでしょうか」
 ルンルンと一緒に見渡すけれど、見えるのは木ばかりだ。方向が違うんだろうか。
「まだ見えないね」
「もう少し登りましょう」
 俄然元気になった私たちは、一気に頂上を目指した。ハイキングだったはずなのに、今の気分は山登りだ。
 坂を上りきったところに見晴台の三角の屋根が見えた。あれが見晴台なのだろう。木で出来ている小さなベンチがあって、年配のご夫婦が座って休んでいた。
「こんにちは」
 挨拶をすると二人は穏やかに微笑んでくれる。見晴台に上るとそこに広がったのは風景画の世界だった。
 カメラを出そうかとも思ったけど、止めた。記録写真を撮っている場合じゃない。ゆっくりこの風景を見ていたかった。
 目の前に広がる山々を見ていると、下での出来事が木の葉のざわめきより小さく思える。私たちは、しばらく黙って風にあたっていた。
 
 
 喉が渇いて、リュックをさぐるとペットボトルはすでに空になっていた。
「もう、お昼すぎましたね」
「こんなに時間がかかるとは思わなかったもんね」
「春先に落石があって、遊歩道が少し変わったんだよ」
 のんびりと話す私たちに、旦那さんが教えてくれた。
「そうなんですか」
 これで謎がとけた。パンフレットは間違ってはいなかったのだ。間に合わなかっただけで。
 奥さんがリュックから小さな袋を取り出した。
「ひとつしかないけれど、良かったら食べてちょうだい」
 手にはあんぱんが乗っていた。どうしようと、ルンルンが目で聞いてきた。私も、言葉に甘えていいものか悩んだけれど、有難く頂くことにした。
「ありがとうございます」
 にこりと笑いながら受け取ったルンルンは、袋を開けるとあんぱんを二つに分けた。
「はい。半分こです」
 ルンルンは片方を私に渡しながら言った。半分こという言葉を彼女は寮で覚えた。
「いただきます」
 あんぱんを膝の上に置くと、両手をあわせる。それから、ぱくりとかぶりついた。
「美味しいね」
「美味しいです」
 思っていたより疲れていたようで、甘いものがとても美味しかった。ご夫婦はにこやかに笑うと、下山を始めた。
「ありがとうございました」
 もう一度お礼を言うと、手を振ってくれる。こっちも大きく手を振った。
 落ち着いた私たちは目的の建物を探した。見晴台の反対側。どこまでも続く緑の中に隠れ家のように佇んでいた。
「多分、あれが寮だね」
 他の人にはただの家に見えるかもしれない。もしかしたら、見つけることすらできないかもしれない。そんな小さな家だった。
「あの中に九人もいるなんて、普通、思わないよね」
 ちっぽけな世界。だけど、あれこそが私たちの世界の全てだった。
「もっと早く見たかったです」
 隣を見ると、ルンルンが寂しそうに笑っていた。
「どうして?」
「あそこに居ると、みんなといることが当たり前のように思えるからです。これを見ていたとしたら、いきなり寂しくなるなんてことはなかったかもしれません」
 私はルンルンが言っていることの意味が分からず、何も答えることが出来なかった。
 
 
 それから二日後、仕事から帰ると寮にルンルンの姿はなかった。
 もちろん出勤前に挨拶をした。荷物を送っていたのも知っている。でも、心の準備は出来ていなかったんだと気づいた。
 ずっと昔から、一緒にいるみたいに思っていた。別々の生活があって、そこに戻っていくのが当たり前なのに、気づかないふりをしていたんだ。
 ルンルンがいなくなって、ようやく、彼女の言っていた『いきなり寂しくなる』の意味が分かった。
 
 
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