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  二月の挑戦
 
 夕飯の後片付けが終わって、時計を見るとまだ八時になったばかり。
 出張中の旦那には悪いけど、たまにはこんな日もあっていいな。
 私はエプロンで簡単に手を拭きながら、つきっぱなしになっていたテレビを消した。娘は早々に自分の部屋へと戻っていったので、ついでにリビングの灯りも消す。
 久しぶりに大好きな洋楽でも聴きながら、コーヒーでも飲もう。そう決めて、キッチンのカウンターの灯りをつけると、コンポの電源を入れる。
 コーヒーの香りがボサノバの流れるキッチンを包み込んだ頃、娘がリビングへ姿を現した。
「どうしたの?」
 黙ったままカウンターを横切り、キッチンへ立った娘は、ぼそりと呟く。
「……チョコ作るの」
「今から?」
 後ろに隠した紙袋からリボンがはみ出している。そういえば、今日は十三日。明日のバレンタインに手作りチョコを渡すつもりなんだな。土日にすれば良かったのに、ぎりぎりなのは親譲りか。
「何がいるの? 材料はちゃんと買ってあるの?」
 カウンターからキッチンに移動しようとしたら、小さな腕でぐいぐいと押される。
「自分でやるの。お母さんは手を出さないでっ」
「はいはい」
 とは言っても、うちのキッチンは対面式。カウンターでコーヒーを飲んでいると、作業は目に入る。火を扱う小学生をほおっておくことは出来ないし、『初めての挑戦・チョコ編』をしばらく眺めることにしよう。
 
 
 パステルなデコレーション満載のレシピ本を広げると、彼女は製菓用チョコレートの封を切った。袋から取り出そうとして、どこに置いたらいいか悩んでいる。
 ちょっと考えたあと、チョコを袋に戻して、まな板を持ってきた。選んだ包丁は、何を思ったか出刃包丁。
 力は入るかもしれないけど、細かく刻まないといけないチョコをこれでうまく刻めるのか。
 まな板に直接置いた分厚い製菓用チョコレートに全体重をかける。がすっ、という音と共に斜めに傾いた頭が蛇口にぶつかりそうになる。
 おおっと危ない! せめて、もう少し広いところで作業すればいいのに。
 それでも、チョコは小さくなっていった。刻んだというより、砕いたというほうが相応しい気がするけど。
 チョコでべたべたの手を気にもせず、次は鍋を取り出した。水から沸かさずにポットの湯を利用しようとしているのは、親を良く見ていると褒めてもいいかもしれない。でも、外ではやらないでね。あと、ポットに水を補充しておいてね。
 心の呟きは今のところ口にせず、鍋いっぱいのお湯が沸騰する様子を見守る。
 そのままでボールを上に置いたりしたら、溢れるのは目に見えている。予想通り、彼女は銀色のボールに砕いたチョコを入れると、煮えたぎる湯の上に置いた。
 じゅわわわわーという音と共に、スチームサウナかと思うような湯気が立ち上る。
「うわぁ」
 私は、ぺたりと床に座り込む彼女に駆け寄った。見たところ火傷はしていないようだけど。
「大丈夫?」
 顔を覗きこむと、じわりと汗をかいていた。それでも、しっかりと立とうとする。
「いいから。一人で頑張るから」
「そう?」
 言い出したら聞かないからなー。誰に似たのか。
 まぁ、床の雑巾かけも自分でやるくらいだから、もう少し自分でさせてみようか。私は定位置に戻ると、観察を続けた。
 湯気がおさまった鍋に、もう一度ボールを入れて、右手に持った木べらで混ぜる。
 どれだけ混ぜ続けても、滑らかにならないチョコを見て、涙を浮かべながら彼女は嘆く。
「ええー? 何でかたくなるの?」
 それは火がつきっぱなしで、ボールの温度が上がりすぎてチョコが分離したから。
 型に流し込もうとしても、チョコは完全に固まってしまってボールから剥がれない。
「牛乳、入れてみようかな……」
 固まりすぎたら水分を足す。家庭料理なら何とかなったかもしれない。でも、ボールの中にあるのは茶色い塊と白い液体で構成された不気味な物体。
 もう、あれは食べ物とは言えない。挑戦はここで終了だ。
 
 
 しばらくボールの中の物体とにらめっこしていた娘は、真っ赤な目と鼻をして、私を見上げた。
「おかーさぁん」
 時計を見ると、午後九時。一時間も良く頑張った。初心者にしては大健闘だと思う。
 私は財布から千円札を取り出すと、茶色の掌に乗せた。
「いいから、遅くならないうちにチョコ買ってきなさい。ちゃんと作ってあるやつをね」
 十分後、手と顔を洗ってきた娘は、白い毛糸のマフラーで顔をぐるぐる巻きにして、近所のコンビニへと走っていった。
 手作りチョコは、刻んで溶かして冷やして固めるだけ。レシピは簡単そうに見えるけれど、温度管理が大変すぎる。
「これは、来年のためにケーキの練習しておいたほうがいいかも」
 チョコシフォンかな? あれもメレンゲが大変だからブラウニーにしようかな?
 渡す相手がいるかどうか分からない来年の話を考えていると、大変なことを思い出した。
 ……旦那に渡すの買ってないや。甘党だから楽しみにしているのに。
 戸締りOK! ガスOK! はだしにサンダルだけど、これもOKということにしよう!
 指差し確認をした後、私も慌てて近くのコンビニまで走っていった。


                                            (了)
 
 
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